フランス古典主義の二コラ・プッサンによる『リナルドとアルミーダ』です。

ニコラ・プッサンによる『リナルドとアルミーダ』
『リナルドとアルミーダ』 1628年頃 – 1630年頃 ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー蔵

引用元:『リナルドとアルミーダ』
Rinaldo and Armida ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー
眠る男性に近付いた女性が手を伸ばし、彼の寝顔を見ています。
女性の手には刃物が握られていますが、その腕を天使がつかんでいます。
この物語を知らないで見たとき、「なんか劇的な場面」くらいの感想で終わってしまいましたねー(遠い目)。
この「リナルドとアルミーダ」は、トルクァート・タッソ(詩人、1544年 – 1595年)による叙事詩『エルサレムの解放』(『解放されしエルサレム』)から取られています。
舞台は11世紀末、第1回十字軍の時代。 キリスト教徒とサラセン人が戦っています。
眠っている男性は、キリスト教徒で十字軍兵士 リナルド(ルノー)です。
サラセン人の魔女 アルミーダ(アルミード)はリナルドを殺そうとしますが、逆に恋に落ちてしまいます。
プッサンが捉えたのはまさにこの瞬間、殺意が愛情に変わる瞬間でした。
プッサンはこの叙事詩に深く感銘を受け、タンクレードとエルミニア、カルロとウバルド、リナルドとアルミーダといった多くの登場人物を作品の題材とし、愛と戦争の物語を探求しました。(Google翻訳)
(文中の「タンクレードとエルミニア」は同じタッソーの『解放されしエルサレム』。エルミニアは女主人公)
プッサンは本作以外にも『リナルドとアルミーダ』の場面を描いています。
『リナルドとアルミーダ』 1620年代 プーシキン美術館蔵

引用元:Nicolas Poussin
Пуссен Н. Картина. Ринальдо и Армида. 1620-е гг プーシキン美術館
愛の衝動に駆られたアルミーダ。 彼女は眠るリナルドを空飛ぶ戦車に乗せて、自らの魔法の宮殿へと運び込みます。
アルミーダはオロンテス川の岸で眠っているリナルドを見つけます。当初騎士を殺そうと計画していた魔女は情熱に駆られてしまいます。すべての細部 ( 大理石の柱も含む ) が詩の本文と一致していることは注目に値します[ 95 ]。(Google翻訳)
Wikipedia Пуссен, Никола
『リナルドとアルミーダ』 1637年 絵画館(ベルリン)蔵

引用元:Armida entführt den eingeschläferten Rinaldo
Armida entführt den eingeschläferten Rinaldo 絵画館(ベルリン)
フリードリヒ大王が購入させたというこの絵画。 誘拐の場面ですが、美しいですね。
眠るリナルドを自分の宮殿に運んで行くアルミーダの一行です。
このテーマは、ソレント生まれの詩人トルクァート・タッソによる1581年の叙事詩『エルサレム解放』から来ています。オロンテス川の島で、右側に髭面の男が擬人化され、美しい草木に囲まれた場所で、サラセン人の魔術師アルミーダがキリスト教徒の騎士リナルドを眠りに誘い込み、刺殺します。しかし、眠り男の優美な姿に武器を失ったアルミーダは、ついに凶器のナイフを落とします。そのナイフは、左側の騎士が捨てた武器の中に見えます。アルミーダに従順なプッティは、バラ、イボタノキ、ユリ、アサガオの縄で縛られたリナルドを拉致します。背景の柱の下では、仲間のカルロとウバルドが待っています。彼らは叙事詩の中で最終的にリナルドを解放し、キリスト教のために共に戦い続けるのです。(Google翻訳)
戦いを忘れたリナルドはアルミーダと幸せに暮らしました。
そんな彼を、仲間のカルロとウバルドが助けにやって来ます。
『リナルドの仲間たち』 1633年 メトロポリタン美術館蔵

The Companions of Rinaldo メトロポリタン美術館
『リナルドとアルミーダ』の物語を知らないと、三枚目の作品などは単に「昔の時代の兵士が怪物と戦ってる」図にしか見えないのでは。
メトロポリタン美術館で巨匠の作品を前にして、「タイトルにある「リナルド」って誰よ?」と首をひねって終わるのでは、かーなーりー勿体ないことだと思われます。
この作品について、メトロポリタン美術館の解説を引用します。
プッサンは、トルクァート・タッソの英雄的十字軍詩『エルサレム解放』 (1580年)のエピソードを描いています。キリスト教の騎士カルロとウバルドが、異教の魔術師からリナルドを救出しようと竜と対峙する場面です。第1回十字軍は11世紀に起こったため、プッサンは古代ローマの武器や甲冑を選んだという点では時代錯誤であり、古物収集家としての彼の関心が、主題への忠実さよりも優先されていたことを示しています。この絵画は、ローマ到着後、プッサンの知的世界の基盤となっていた古物収集家であり収集家であったカッシアーノ・ダル・ポッツォの所有物であったと考えられます。(Google翻訳)
興味深いことに、リナルドの仲間であるカルロとウバルドは十字軍兵士であるにもかかわらず、古代ローマ兵の格好をしています。
物語の舞台は11世紀末、第1回十字軍の時代ですから、「古代」ではないですよね。
例えば、同じ17世紀の画家 ドメニキーノが描いたカルロとウバルドの格好は、こんな感じ。 ふたりは画面左上、茂みの中に隠れています。

引用元:『リナルドとアルミーダ』
Renaud présentant un miroir à Armide ルーヴル美術館
プッサンが描くんだもの、単に「カッコいいから」「時代考証なんかムシ」などの単純な理由とも思えませんから、古物収集家 カッシアーノ・ダル・ポッツォに向けたものだったのでしょうかね。
自身も学識豊かだったプッサンは、ローマにいた1630年代、「学識豊かな愛好者サークルのためだけに作品を制作していた」そうです。(参考:『ルーヴルガイド』)
わかるひとにはわかる。 というか、学識豊か・教養豊かでないと、作品の言わんとする意味が判らない。 鑑賞者の教養が試されてしまう。
二コラ・プッサンとはどのような画家だったのでしょうか。
二コラ・プッサン( Nicolas Poussin, 1594年6月15日 – 1665年11月19日)

引用元:『自画像』
二コラ・プッサンは1594年、フランス・ノルマンディー地方の村で生まれました。
パリで修行したあと、29歳の時(1624年)ローマに出ています。
1640年、フランス国王ルイ13世の要請によりフランスに帰国しましたが、二年後ローマに戻り、現地で亡くなりました。71歳でした。
時代はバロック
プッサンの活躍した17世紀は、バロックの全盛期でした。
バロックの巨匠、といえばカラヴァッジョ、ルーベンス、ベルニーニ…と多くの名が挙がります。

引用元:『果物籠を持つ少年』
hanna and books の記事
激しい明暗、過剰な装飾や表現が流行するなか、プッサンは、古代ギリシャ・ローマ時代の芸術やルネサンス期のラファエロの作品に傾倒。
理知的・静謐な画風で、古典主義芸術を確立します。
下はプッサンの代表作のひとつ、『アルカディアの牧人たち』です。

引用元:『アルカディアの牧人たち』
『理由がわかればもっと面白い! 西洋絵画の教科書』でも『アルカディアの牧人たち』が挙げられています。
17世紀のヨーロッパでバロック美術が流行する一方で、理性と秩序を求めてギリシア・ローマ美術を理想とする「古典主義」が生まれた。作者のプッサンは、厳格なデッサン、秩序ある構図など、知的要素を重視した古典主義を確立したとされ、フランスでは「絵画の父」と称えられた。
田中久美子(監修). 2021-3-30. 『理由がわかればもっと面白い! 西洋絵画の教科書』. ナツメ社. p.189.
プッサンは「絵画の父」「哲人画家」とも評されます。
秩序のある構図や明快な色彩から人間の感情や主張、物語の主題を、どう視覚的に表現するかという課題に取り組み続けたプッサンは、「哲人画家」とも呼ばれる。
田中久美子(監修). 2021-3-30. 『理由がわかればもっと面白い! 西洋絵画の教科書』. ナツメ社. p.189.
そんなスゴイ画家だと全く知らなかった、不勉強極まるハタチのワタシ。
わかんないながらも印象に残ったので、ルーヴル美術館で『アルカディアの牧人たち』の絵ハガキを買いました。もちろんまだ持ってます。
カッシアーノ・ダル・ポッツォ( Cassiano dal Pozzo, 1588年 – 1657年)

引用元:Portrait of Cassiano dal Pozzo
『リナルドの仲間たち』の、メトロポリタン美術館による解説のなかに名前が出てきた カッシアーノ・ダル・ポッツォ。
フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿の秘書を務め、古物研究家であり収集家。
ニコラ・プッサンとは長年の友人であり、支援者でした。
プッサンは、バルベリーニ枢機卿のために『ゲルマニクスの死』(1629年)を制作。
バルベリーニ枢機卿は美術の愛好家であったばかりでなく、当時のローマにおける知的サークルの中心的人物であったから、その仲間に加えられたのはプッサンにとって大きな意味があったと言ってよいであろう。しかしそれ以上に重要なことは、枢機卿の秘書をしていたカッシアーノ・ダル・ポッツォと親しくなったことである。ダル・ポッツォはその後生涯にわたってプッサンの親しい友人となり、また保護者ともなったからである。
高階秀爾(著). 2019-9-9(第29刷発行). 『フランス絵画史 ルネサンスから世紀末まで』. 講談社学術文庫. p.88.
ダル・ポッツォの後援は広く、シモン・ヴーエ、アルテミジア・ジェンティレスキ、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、アレッサンドロ・アルガルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナ、カラヴァッジョらにも及んでいたそうです。
ルイ13世により招聘(しょうへい)
フランス王ルイ13世は、ローマで活躍していたプッサンを招聘。
プッサンは1640年、ルーヴル宮グランド・ギャラリー装飾の仕事のため、ローマを離れます。
テュイルリー宮殿の立派な邸宅がプッサンに提供されました。
ルイ13世に謁見した後、1641年3月20日、プッサンは「首席宮廷画家」« premier peintre ordinaire du roi » の称号と、「王室の装飾のためのあらゆる絵画・装飾作品の全般的な管理を3,000リーブルの報酬で受けた(Google翻訳)」。(参考:Wikipedia Nicolas Poussin )

引用元:ルイ13世
ここにもうひとり、ルイ13世の有名な「国王付き画家」« peintre ordinaire du roi » を挙げたいと思います。
1639年に「国王付き画家」の称号を得た「夜の画家」ジョルジュ・ド・ラトゥールです。
『ダイヤのエースを持ったいかさま師』 1636年 – 1640年頃 ジョルジュ・ド・ラトゥール ルーヴル美術館蔵

引用元:『いかさま師』
Le Tricheur à l’as de carreau ルーヴル美術館
悪事決行の瞬間を描いた「いかさま師」です。「怖い絵」でもよく知られていますよね。
ラ・トゥールが活動したのは17世紀前半である。当時のヨーロッパはバロック美術の全盛期であり、フランス画壇では古典主義の大家ニコラ・プッサンが活動していたが、ロレーヌのような地方にはパリやローマのような都会とは異なった独自の画風をもった画家たちが存在していた。
Wikipedia ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
プッサンがローマで活動していた頃、ロレーヌ公国出身のラトゥールは「三十年戦争」を逃れ、1638年にナンシーに避難しました。
後世の鑑賞者である私から見ると、それぞれの「1630年代」があったんだなーと思います。
不安定な時代でしたが、この頃に好まれた主題や、「こういう理由で~が描かれたんだー」というところに、私はとても興味があります。
17世紀の『リナルドとアルミーダ』
『リナルドとアルミーダ』 1601年頃 アンニーバレ・カラッチ カポディモンテ美術館蔵

引用元:『リナルドとアルミーダ』 Mentnafunangann CC-BY-SA-4.0
ドメニキーノの師匠であるカラッチによるリナルドとアルミーダ。
アルミーダのまなざしや顔の影が魔女っぽい。
カラッチのアルミーダが一番官能的ではないかな?
カラヴァッジョとカラッチのコラボ『聖母被昇天』『聖ペテロの磔刑』『聖パウロの回心』
『リナルドとアルミーダ』 1629年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ボルチモア美術館蔵

引用元:『リナルドとアルミーダ』
ルーベンスの弟子だったアンソニー・ヴァン・ダイク。
ヴァン・ダイクはイングランドのチャールズ1世の宮廷で首席画家に就任しています。
大きく翻る布はアルミーダの心中を反映しているのでしょうか。


hanna_and_art’s blog の記事『ナルキッソスを見つめるエコー『エコーとナルキッソス』(プッサン作)』も掲載されています


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