ルーベンスのおすすめ「レリー・ヴィーナス」

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大英博物館に収蔵されている、うずくまるヴィーナスの像。17世紀、チャールズ1世は巨匠ルーベンスの勧めでマントヴァ公から購入します。

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
目次

「レリー・ヴィーナス」( Lely Venus ) 2世紀頃

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵

引用元:『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) Marie-Lan Nguyen

湯浴みの最中、何かに驚いて肩越しに振り返る女神像。

この「うずくまるヴィーナス像」は大英博物館にあります。

かつてこの像を所有していた画家ピーター・レリーの名にちなみ、「レリーのヴィーナス」「レリー・ヴィーナス」とも呼ばれます。

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 2世紀頃のローマン・コピー 大英博物館蔵

引用元:『レリーのヴィーナス』 Marie-Lan Nguyen CC-BY-2.5

このヴィーナス像の原型は、紀元前250年頃のギリシアの彫刻家、ドイダルサス( Doidalsas )の作品とされています。

その後のローマ時代には同じようなポーズの模刻が多く作られました。

1600年代初め、このヴィーナス像はマントヴァのゴンザーガ家の所有物でした。

ゴンザーガ家の財産目録はこのヴィーナス像を、「最も美しい彫像」として記録しています。

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵

引用元:『レリーのヴィーナス』 Paul Hudson CC-BY-2.0

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵

引用元:『レリーのヴィーナス』 Will CC-BY-SA-2.0

『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵
『レリーのヴィーナス』(アフロディテ) 西暦100年頃のローマン・コピー 大英博物館蔵

引用元:『レリーのヴィーナス』 Ricardo Tulio Gandelman CC-BY-2.0

ルーベンス、マントヴァ公に雇われる

マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガは、フランドル出身の画家ピーテル・パウル・ルーベンスを宮廷に雇い入れます。

マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ 1600年 ルーベンス画
マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ 1600年 ピーテル・パウル・ルーベンス

引用元:マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ

マントヴァ公妃エレオノーラ・デ・メディチ(1566年3月1日-1611年9月9日) 16世紀 ソフォニスバ・アングイッソラ画
マントヴァ公妃エレオノーラ・デ・メディチ(1566年3月1日-1611年9月9日) 16世紀 ソフォニスバ・アングイッソラ

引用元:マントヴァ公妃エレオノーラ・デ・メディチ

ピーテル・パウル・ルーベンス(1577年6月28日-1640年5月30日)自画像 1623年 ロイヤル・コレクション蔵
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577年6月28日-1640年5月30日)自画像 1623年 ロイヤル・コレクション蔵

引用元:ピーテル・パウル・ルーベンス

マントヴァ公妃エレオノーラは、フランス国王アンリ4世の妃となったマリー・ド・メディシスの姉です。

ルーベンスはマリー・ド・メディシスの生涯を描いた『マリー・ド・メディシスの生涯』の『マルセイユ上陸』で、エレオノーラの姿も描いています。

フランスへ嫁ぐマリー・ド・メディシスに付き添う黒衣の女性が、マントヴァ公妃です。

『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」 ピーテル・パウル・ルーベンス ルーヴル美術館所蔵
『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年-1625年)より「マリーのマルセイユ到着」 ピーテル・パウル・ルーベンス ルーヴル美術館所蔵

引用元:『マリー・ド・メディシスの生涯

ゴンザーガ家に滞在していたルーベンスは「うずくまるヴィーナス」の像を目にしています。

 ルーベンスはゴンザガ家に滞在中、実際にこのヴィーナス像に出会い、魅せられている。そして、後にその姿を、彼の代表的な油彩画「アレゴリー」(ドイツ・カッセル美術館所蔵)に表すことになる。

桜井武(著). 2008-2-8. 『ロンドンの美術館 王室コレクションから現代アートまで』. 平凡社. pp. 241.-242.

ヴィーナスと同じポーズを取るケレス

『ケレス、バッカス、ヴィーナス』 1613年-1614年 ピーテル・パウル・ルーベンス カッセル美術館蔵

『ケレス、バッカス、ヴィーナス』 1612年?1613年?-1614年 ピーテル・パウル・ルーベンス カッセル美術館蔵
『ケレス、バッカス、ヴィーナス』 1612年?1613年?-1614年 ピーテル・パウル・ルーベンス カッセル美術館蔵

引用元:『ケレス、バッカス、ヴィーナス』

ルーベンスは豊穣の女神ケレスにヴィーナス像と同じポーズを取らせています。

ちょっと元気がなさそうな美の女神ヴィーナスは、酒の神バッカスから杯を差し出されていますね。

下の画像は「凍えるヴィーナス」、または『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』という名が付けられた絵です。

『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』 1614年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス ウィーン美術アカデミー蔵
『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』 1614年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス ウィーン美術アカデミー蔵

引用元:『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』

この絵の中のヴィーナスはもっと元気が無さそう(;’∀’)。

枝を抱えたキューピッドが、焚火に向かってふうふうしていますね。

ヴィーナスは、そのわずかな火に手をかざしている…という図。よく見れば、ヴィーナスは足も温めようとしています。

これは一体どういうことなのかというと、ヴィーナスは、ケレス(豊穣の女神)とバッカス(酒の神)たちに「見捨てられた」状況なのです。

食べ物と飲み物が満足に無ければ、愛は冷めてしまいます。

感覚的喜びのないところには愛も生まれません。

そうなるのを防ぐために、キューピッドは消えてしまいそうなほど小さな愛の火を、再び燃え上がらせようとしていると取れます。(参考:『ルーベンスとその時代展』(2000年))

『ケレス、バッカス、ヴィーナス』では、ケレスとバッカスがヴィーナスに寄り添っています。

ヴィーナス様、無事に生還。

このように、ゴンザーガ家の美しい「うずくまるヴィーナス」はルーベンスにインスピレーションを与えたのです。

1609年、ネーデルラント総督夫妻に雇われる 

8年間のマントヴァ滞在中、マントヴァ公は、ルーベンスを自分の親戚であるネーデルラント大公アルブレヒトに紹介します。

アルブレヒトの父・神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と、マントヴァ公の母親・エレオノーレ、マントヴァ公妃エレオノーラの母・ヨハンナ、この三人は兄妹でした。

アルブレヒトはルーベンスに大きな仕事を依頼します。

アルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(1559年-1621年) 1618年頃 ルーベンス 美術史美術館蔵
アルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(1559年-1621年) 1618年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス 美術史美術館蔵

引用元:アルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ

イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア 1615年頃 ルーベンス 美術史美術館蔵
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア 1615年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス 美術史美術館蔵

引用元:イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア

夫妻の肖像画もルーベンスによるもの。

ルーベンスはマントヴァを離れ、当時はスペイン領だったネーデルラントの総督夫妻に仕えることになりました。

(アルブレヒト、ゴンザーガ夫妻の祖父は神聖ローマ皇帝フェルナンド1世ですが、スペイン王女イサベル・クララ・エウヘニアの祖父は神聖ローマ皇帝カール5世。フェルナンド1世の実兄です。皆親戚です)

イングランド王から仕事の依頼

ルーベンスの元に、イングランド王ジェイムズ1世からも迎賓館の大広間の天井画を描く仕事が来ます。

しかしジェイムズ1世が亡くなったため、この仕事は棚上げになりました。

パリで『マリー・ド・メディシスの生涯』の仕上げに携わっているとき、ルーベンスは次のイングランド王チャールズ1世の寵臣、バッキンガム公ジョージ・ウィリアーズと知り合います。

初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(1592年-1628年) 1625年頃 ルーベンス ピッティ宮殿蔵
初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(1592年-1628年) 1625年頃 ルーベンス ピッティ宮殿蔵

引用元:初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ

バッキンガム公は、フランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚するチャールズ1世の名代としてパリに滞在していました。

熱心な美術愛好家でもあったバッキンガム公は、ルーベンスの古代彫刻コレクションを買い取る交渉をする一方、ルーベンスに絵の依頼もしています。

ルーベンス、チャールズ1世に助言する

『狩場のチャールズ1世』 1635年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ルーヴル美術館蔵
『狩場のチャールズ1世』 1635年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ルーヴル美術館蔵

引用元:『狩場のチャールズ1世』

ルーベンスの助手をしていたこともあるヴァン・ダイクの傑作『狩場のチャールズ1世』と、レノルズの作品馬から下りている人物の絵(レノルズの『ジョージ・K・H・クースメイカー大尉』とヴァン・ダイクの『狩場のチャールズ1世』)

画家ルーベンスは本業以外にも外交官として精力的に活躍しています。

その教養や語学力、画家としての実力を存分に発揮し、欧州各国、特にスペインとイングランドの和平に尽力しました。

以前チャールズ1世がスペイン王フェリペ4世の妹との結婚を考えていたとき、スペイン側の態度に振り回され、チャールズ1世はすっかりスペイン嫌いになってしまいました。

しかし、フェリペ4世の所有するコレクションの素晴らしさに感銘を受け、チャールズ1世の芸術に対する関心は一気に高まります。

1628年には、当時のマントヴァ公から上質な絵画や彫刻のコレクションを購入。

このまとめ買いにはルーベンスがチャールズ1世の命で交渉に当たったようです。

ルーベンスはあの妖艶な彫刻、「うずくまるヴィーナス」像も購入するようにチャールズ1世に勧めました。

清教徒革命でコレクションは海外に流出

1635年、ルーベンスはロンドンのバンケティング・ハウスの天井画を完成させ、その5年後に亡くなります。

やがて清教徒革命が起こり、1649年チャールズ1世がバンケティング・ハウスの前で処刑。

チャールズ1世が集めたティツィアーノやラファエロなどの作品は国外に売却されてしまいました。

このとき、ヴィーナス像も行方不明になってしまいます。

英王室所有の宝飾品「スリー・ブラザーズ」も行方不明1645年以降行方不明 エリザベス1世が着けた宝石「スリー・ブラザーズ」

しかしその後、ヴィーナス像が人気画家ピーター・レリー( Sir Peter Lely )に買い取られていたことが判ります。

自身も美術愛好家だったレリーは、ヴェロネーゼやティツィアーノら巨匠の作品を所有していました。

ピーター・レリー(1618年-1680年)自画像 1660年 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
ピーター・レリー(1618年-1680年)自画像 1660年 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:ピーター・レリー

1647年、レリーは首席画家アンソニー・ヴァン・ダイク亡き後、チャールズ1世の肖像画家となりました。

清教徒革命の間もレリーに対する評価は変わらず、1660年にチャールズ1世の息子であるチャールズ2世が王位に就くと、レリーは宮廷の首席画家に就任します。

イングランド、スコットランド、アイルランドの王チャールズ2世 1675年 ピーター・レリー ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
イングランド、スコットランド、アイルランドの王チャールズ2世 1675年 ピーター・レリー ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:チャールズ2世

チャールズ2世は革命で散逸したコレクションを買い戻しましたが、そのひとつがこのヴィーナス像でした。

以降「最も美しい彫像」はレリーの名を取り、「レリー・ヴィーナス」と呼ばれるようになりました。

むっちり具合が私好みのこの像、行方不明のままでなくて、本当に良かった。

主な参考文献
  • 桜井武(著). 2008-2-8. 『ロンドンの美術館 王室コレクションから現代アートまで』. 平凡社.
  • 『ルーベンスとその時代展』(ウィーン美術大学絵画館所蔵 2000年)

チャールズ2世が受けた治療とはチャールズ2世、「その当時最高の治療」を受ける。

ヴァン・ダイクの名にちなむレース、ヒゲ画家ヴァン・ダイクの名が付いたレースとヒゲ

チャールズ2世の妹メアリーチャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの肖像(ボストン美術館)

ヴェロネーゼの絵画「ヴェロネーゼのグリーンで」

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ぴーちゃん様

    コメント有難うございました。

    1600年代の「美人」はルーベンスの絵に出てくるような、たっぷりした感じです。古代ギリシャや古代ローマの彫刻、ミロのヴィーナスあたりはあんまりたっぷりしてないですね。時代によって好みがだいぶ違いますね。
    彫刻のなかでは断トツにサモトラケのニケが好きなのですが、うずくまるヴィーナスの「むっちり太もも系」も非情に捨て難いです。

    ホーガスの記事も見て下さって有難うございます。優雅でお洒落で、見ていて実に楽しい時代ですが、あの時代の庶民に生まれていたら、税金に苦しんだ上、飢え死にしてしまいそうです。搾取、という言葉が浮かびますが、絶対王政や貴族文化を経なければ、生活文化とか芸術の成熟は無かったのだろうか…と考えてしまいます。

    チャールズ2世が買い戻したチャールズ1世のコレクションで有名なのは家族の肖像画やラファエロの絵画などだと思いますが、売却されたもののうち何割まで戻ってきたのか、いつか調べてみたいものです。歴史の中でどこかに行ってしまって出て来ない…なんてのもあるんでしょうね。
    (私、男に生まれていたら、多分トレジャー・ハンターやっていたと思います。ロマンを求めて)

    今回もお付き合いくださって本当に有難うございました。

  • hannnaさん、こんにちは。
    レリーのビーナス像は、凄く評価が高いですね。
    1600年代の美人の定義は、ふっくらとした人だったのでしょうか。
    hannnaさんの好みのむっちり具合はこの頃の人の好みと同じなのですね!!
    現代も、美人の定義がやせすぎな人から、健康的な肉付きの人に代わってきていますね。(笑)
    いまでも散逸したままの美術品が結構あるのでしょう?
    それらの美術品が少しでも見つかって、手入れの行き届くしかるべき場所で保管されることを願っています。
    戦災や、宗教間の違いでなくならないように。

    ホガーズ、改めて読ませていただきました。
    男の人もおしゃれに余念がない…笑

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