マイセン磁器の国のアウグスト「弱王」と妃マリア・ヨーゼファ

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アウグスト強王の息子は陰で「弱王」と呼ばれていました。しかし父のアウグスト強王と違い、家庭は円満。その弱王の娘はフランスに嫁ぎ、ルイ16世の母親となりました。

妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵
妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵
目次

マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ( Maria Josepha von Österreich, 1699年12月8日-1757年11月17日)

妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵
マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵

引用元:マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘、マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ。

「女帝」マリア・テレジアの従姉妹です。

マリア・ヨーゼファの父・神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世と、マリア・テレジアの父でヨーゼフ1世の次の神聖ローマ皇帝カール6世は兄弟です。

マリア・テレジア 1759年 マルティン・ファン・マイテンス ウィーン美術アカデミー
マリア・テレジア 1759年 マルティン・ファン・マイテンス ウィーン美術アカデミー

引用元:マリア・テレジア

1719年8月、マリア・ヨーゼファは、ザクセンのフリードリヒ・アウグストと結婚します。

妻となったマリア・ヨーゼファにとり、フリードリヒ・アウグストは良き夫で家庭も円満。夫妻の間には多くの子供が生まれました。

アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ 1750年頃 ミニアテュア 作者不明
アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ(ミニアテュア) 1750年頃 作者不明

引用元:アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ

「アウグスト弱王」フリードリヒ・アウグスト・フォン・ザクセン(1696年10月17日-1763年10月5日)

「アウグスト強王」として有名なザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世)の息子です。

ポーランド王としては、アウグスト3世サス( August III Sas )、ザクセン選帝侯としては、フリードリヒ・アウグスト2世( Friedrich August II. )。

フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセン(1696年10月17日-1763年10月5日) 1756年頃 ルイ・ド・シルヴェストル アルテ・マイスター絵画館
フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセン 1756年頃 ルイ・ド・シルヴェストル アルテ・マイスター絵画館

引用元:アウグスト3世

「アウグスト強王」(1670年5月12日-1733年2月1日) 1720年以前 ルイ・ド・シルヴェストル
「アウグスト強王」(1670年5月12日-1733年2月1日) 1720年以前 ルイ・ド・シルヴェストル

引用元:「アウグスト強王」

怪力の持ち主で、庶子の数が300人以上いたという「アウグスト強王」。

ポーランド王・ザクセン選帝侯、アウグスト2世は東洋磁器の収集家としても大変有名です。

マイセンのアルブレヒト城に「錬金術師」ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁の研究に当たらせたのもアウグスト2世でした。

「強王」アウグスト2世と異なり、跡継ぎ息子であるフリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセンは陰で、「アウグスト弱王」などと呼ばれていたそうです。

政治にはあまり関心は無く、磁器にもそれほど興味が無かったそうです。

むしろ絵画の収集に熱心で、

アウグスト三世は、とくに一六世紀のイタリア・ルネサンス絵画の巨匠、一七世紀のオランダ・バロック絵画の巨匠作品に質の高いコレクションを形成し、きわめて高い評価を受けている。その一方で彼は、同時代のイタリアやドイツの画家たちをドレスデンの宮廷に招聘しょうへいするなど、同時代の芸術保護にも積極的であった。

前田正明・櫻庭美咲(著).2006-1-31.『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』.角川選書. p.133,

アウグスト3世の重要なコレクションのひとつ、ルネサンスの画家ラファエロの『システィーナの聖母』です。

『システィーナの聖母』 1513年-1514年 ラファエロ アルテ・マイスター絵画館蔵
『システィーナの聖母』( Sixtinische Madonna ) 1513年-1514年 ラファエロ アルテ・マイスター絵画館蔵

引用元:『システィーナの聖母』

王妃のための枯れない花「スノーボール」

アウグスト3世の「王妃に枯れない花を贈りたい」という要望により誕生した磁器の花、「スノーボール」。

マイセンの食器や花瓶に見られる可憐な小花の装飾です。1739年のことでした。

可憐なスノーボールで飾られた壺 マイセン動物園展(2019-21)
可憐なスノーボールで飾られた壺 マイセン動物園展(2019-21)
マイセン動物園展(スノーボールのコーヒーセット) 筆者撮影
マイセン動物園展(スノーボールのコーヒーセット) 筆者撮影

ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー( Johann Joachim Kändler, 1706年6月15日-1775年5月18日)

1731年、ザクセン選帝侯国の宮廷彫刻家、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーは、アウグスト強王によりマイセンの磁器製作所の彫刻作品の原型師(造形師、モデラー)に指名されます。

それまで中国風の焼き物を制作していたマイセンでは、ケンドラーら彫塑家たちによって、「東洋風人物像、動物像、天使やキリスト教にモチーフをとった群像、ロココ風の当時流行した田園における饗宴や生活をモチーフにした群像」の制作が始まりました。(参考:『マイセンへの道』 東京書籍)

自費まで投入して制作していた大作アウグスト強王の騎馬像は未完成に終わりましたが、世の中がバロックからロココに移行するなか、ケンドラーは華やかで軽快なロココ趣味を帯びた多くの磁器彫刻を制作しています。(参考:『マイセン』 玉川大学出版部)

アウグスト3世像 ケンドラー作、マイセン 
アウグスト3世像 1753年頃 ケンドラー作、マイセン

引用元:アウグスト3世像 Daderot

下は、マリア・ヨーゼファの息子フリードリヒ・クリスティアンと、その妻であるマリア・アントニアの彫像です。

ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンとその妻バイエルン選帝侯マリア・アントニア王女 1747年 ケンドラー作、マイセン
ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンとその妻マリア・アントニア 1747年 ケンドラー作、マイセン

引用元:ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンとその妻マリア・アントニア王女 Daderot

妃マリア・アントニアの両親は、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(後の神聖ローマ皇帝カール7世)と妃マリア・アマーリエです。

マリア・アマーリエはマリア・ヨーゼファの妹ですので、マリア・ヨーゼファから見れば姪、フリードリヒ・クリスティアンにとっては従姉妹に当たります。

ケンドラーの小型立像(フィギュリン)

Kaendler Dame mit Mohr und Tischchen
ムーア人の従者と小テーブルがある貴婦人像(Kaendler Dame mit Mohr und Tischchen) 1740年頃 ベルリン工芸美術館蔵

引用元:ムーア人の従者と小テーブルがある貴婦人像 User:FA2010

Lady with servant, Johann Joachim Kaendler, Meissen Porcelain Factory, c. 1737
従者と貴婦人像( Lady with servant ) 1737年頃 ケンドラー、マイセン磁器

引用元:従者と貴婦人 Daderot

Lady with servant and cavalier, Johann Joachim Kaendler, Meissen Porcelain Factory, c. 1737, hard-paste porcelain
従者と騎士がいる貴婦人像( Lady with servant and cavalier ) 1737年頃 ケンドラー、マイセン磁器

引用元:従者と騎士がいる貴婦人像 Daderot

Kaendler Handkussgruppe
従者と騎士がいる貴婦人像( Kaendler Handkussgruppe ) 1737年-1740年頃 ケンドラー、マイセン磁器

引用元:従者と騎士がいる貴婦人像 User:FA2010

『チョコレートを飲むカップル』 1744年頃 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(マイセン) メトロポリタン美術館蔵
『チョコレートを飲むカップル』( Couple Drinking Chocolate ) 1744年頃 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(マイセン) メトロポリタン美術館蔵

引用元:『チョコレートを飲むカップル』

メトロポリタン美術館:Couple Drinking Chocolate

『朝の食卓の恋人たち』( Liebespaar am Frühstückstisch ) 1744年頃 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(マイセン) Café und Museum "Zum arabischen Coffe Baum", Leipzig
『朝食の席の恋人たち』( Liebespaar am Frühstückstisch ) 1744年頃 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(マイセン) Café und Museum “Zum arabischen Coffe Baum”, Leipzig

引用元:『朝食の席の恋人たち』

痛風患者( The Gout Sufferer ) 1745年-1750年頃 ケンドラー、マイセン磁器
痛風患者( The Gout Sufferer ) 1745年-1750年頃 ケンドラー、マイセン磁器

引用元:痛風患者 Daderot

Mockery of Old Age 1745年頃 ケンドラー、マイセン磁器
Mockery of Old Age 1745年頃 ケンドラー、マイセン磁器

引用元:Mockery of Old Age Daderot

当時の風俗がぎゅっと凝縮されたような小彫像ですね。

服装やカップ、酒瓶、椅子なども興味深いですが、優雅だったりコミカルだったりと、当時の人が好んだモチーフってこんなんなのかな、と思いながら見るのも楽しいです。

オーストリア継承戦争(1740年-1748年)

1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなります。

カール6世には後継となる男子がいませんでした。いるのは大公女・マリア・テレジア(当時23歳)。

政治経験もなく、今また次の子供を妊娠中でした。

マリア・テレジア(1717年5月13日-1780年11月29日) 1742年頃 マルティン・ファン・マイテンス スロベニア国立美術館蔵
マリア・テレジア(1717年5月13日-1780年11月29日) 1742年頃 マルティン・ファン・マイテンス スロベニア国立美術館蔵

引用元:マリア・テレジア

生前、カール6世が娘のマリア・テレジアを後継者にするべく奔走したにも関わらず、承認したことなど忘れたかのように、マリア・テレジアの相続に対し、フランス王、バイエルンやザクセン王が反対の声を上げました。

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの妃はマリア・アマーリエは、先代の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であり、マリア・ヨーゼファの妹でした。

神聖ローマ皇帝カール7世(バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)の妃、マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(1701年10月22日-1756年12月11日)
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(神聖ローマ皇帝カール7世)の妃、マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(1701年10月22日-1756年12月11日)

引用元:マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト (1697年8月6日-1745年1月20日)
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト (1697年8月6日-1745年1月20日)

引用元:バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、自分の妃が神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であることを理由に、マリア・テレジアの継承に異を唱え、ベーメン王位をも要求します。

しかも、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが帝位を要求した。彼はカール六世の先代であるヨーゼフ一世の娘を妻にしていたのだ。ミュンヒェンの政府は二〇〇年前にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家の間でとり交わされた証文を盾にとった。一五四六年のこの古文書には、ハプスブルク家が男子の相続人を失った時にはバイエルンが皇位を相続するもの、と定められていたのである。

飯塚信雄(著).『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』.中公新書1152.

更に、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)はいち早くオーストリア領シュレージエンに侵攻し、武力で奪い取ってしまいます。

プロイセン王フリードリヒ2世(1712年1月24日-1786年8月17日) 1781年頃 アントン・グラフ サンスーシ宮殿
プロイセン王フリードリヒ2世(1712年1月24日-1786年8月17日) 1781年頃 アントン・グラフ サンスーシ宮殿

引用元:プロイセン王フリードリヒ2世

オーストリアを狙う敵たちを相手に、マリア・テレジアはこの難局を乗り切らねばなりませんでした。

オーストリア・ザクセン戦争

1741年、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世は、ハプスブルク家領の相続権を主張。ボヘミアに侵入します。

「ヨーゼフ1世の娘である妻のマリア・ヨーゼファにも相続の資格がある」との言い分でした。

  そう、大王の犯罪にザクセン選帝侯国も加担したのである!ちなみにこのとき、あのアウグスト強健侯はすでに亡く、同名の息子アウグストが選帝侯かつポーランド王に納まっていた。

彼の妃はハプスブルク家から輿入れしたマリア・ヨーゼファである。彼女は実家ハプスブルクに弓引く婚家の決断を支持した。なぜならうまくいけば自分が従妹のマリア・テレジアの代わりに皇妃になれるのだ!

菊池良生(著). 2009-6-30. 『図説 神聖ローマ帝国』. 河出書房新社. pp.94-95.

しかし、マリア・ヨーゼファが狙っていた?神聖ローマ帝国の皇妃(皇帝妃)の座は、バイエルン選帝侯妃である妹マリア・アマーリエに奪われてしまいました。

その後、和平交渉によりザクセン軍は撤退。

1742年、 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠しました。

しかしその3年後の1745年、カール7世が死去。

フランスはその後継に、マリア・ヨーゼファの夫、ザクセン選帝侯アウグスト3世を推します。

  カール七世が死ぬと、フランスは次の皇帝にザクセン選帝侯アウグスト三世を推した。しかしアウグストは、父の強健侯とは似ても似つかぬ無為の人であった。覇気はきは毛筋にも感じられない。政治は寵臣ちょうしんに任せきりである。その寵臣がこの継承戦争に腰砕けになれば、ザクセン選帝侯もたちまちのうちにそうなる。このフランスの申し出に、一瞬心ときめいたのは選帝侯妃マリア・ヨーゼファである。しかし、夫の無気力が彼女の皇妃への道をとざしてしまった。

菊池良生(著). 2009-6-30. 『図説 神聖ローマ帝国』. 河出書房新社. p.96.

プロイセンに奪われたシュレージエンは戻って来ませんでしたが、神聖ローマ帝国の皇帝位はマリア・テレジアの元に戻って来ました。

1745年、マリア・テレジアの最愛の夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位します。

しかし、皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使。

マリア・テレジアは一般に「女帝」といわれますが、実際には女帝ではなく「皇帝妃」です。

フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)(恐らくマイテンス画)
フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)(恐らくマイテンス画)

引用元:フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン

フランツ・シュテファンはマリー・アントワネットの父親です。

アウグスト3世夫妻の娘マリア・ヨーゼファの息子はフランス王ルイ16世

マリア・ヨーゼファとアウグスト3世は子どもたちの教育に熱心でした。子どもたちは高い教養を身に着けて育ちます。

下はフランスの画家ジャン=マルク・ナティエが描く優美な女性の肖像画ですが、この女性は夫妻の娘のひとり、マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン( Maria Josepha Karolina Eleonore Franziska Xaveria von Polen und Sachsen )です。

マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(1731年11月4日-1767年3月13日) 1751年頃 ナティエ ヴェルサイユ宮殿
マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(1731年11月4日-1767年3月13日) 1751年頃 ジャン=マルク・ナティエ ヴェルサイユ宮殿

引用元:マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン

母親マリア・ヨーゼファと同名の彼女のフランス語名は、「マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス」。

フランスに嫁いだ後、ある有名な人物の母となります。

その人物とは、フランス国王ルイ16世。

フランス国王ルイ16世(1754年8月23日-1793年1月21日) 1788年 アントワーヌ=フランソワ・カレ ヴェルサイユ宮殿
フランス国王ルイ16世 1788年 アントワーヌ=フランソワ・カレ ヴェルサイユ宮殿

引用元:フランス国王ルイ16世

ルイ16世の妃はマリー・アントワネット。神聖ローマ皇帝フランツ1世と、皇妃マリア・テレジアの娘です。

『バラを持つマリー・アントワネット』 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿
『バラを持つマリー・アントワネット』 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿

引用元:『バラを持つマリー・アントワネット』

従姉妹同士であるマリア・ヨーゼファとマリア・テレジアの孫や娘が、異国の地で結婚します。

歴史上、王族の結婚では、いとこや、またいとこ同士で結婚というのはよく聞く話ですが、こうした巡り合わせというのは大変面白いですね。

マイセン

マイセン磁器の書籍はいろいろ出ています。博物館クラスの作品を書籍で見ては自分で所有している気になるのですが、本はどれも大きくて厚くて狭い部屋では維持するのも結構タイヘン。

この『マイセン』はそんなに厚くありません(笑)。 著者の南川さんの写真はいつも素晴らしく、知識もお持ちで、この方の著作なら間違いないと思っています。

主な参考文献
  • 前田正明・櫻庭美咲(著).2006-1-31.『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』.角川選書.
  • 飯塚信雄(著).『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』.中公新書1152.
  • 菊池良生(著). 2009-6-30. 『図説 神聖ローマ帝国』. 河出書房新社.
  • 加藤雅彦(著). 2018-5-11. 『図説 ハプスブルク帝国』. 河出書房新社.
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