マイセン磁器の国のアウグスト「弱王」と妃マリア・ヨーゼファ

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アウグスト強王の息子は陰で「弱王」と呼ばれていました。しかし父のアウグスト強王と違い、家庭は円満。

その弱王の娘はフランスに嫁ぎ、ルイ16世の母親となりました。

妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵
妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵

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目次

「アウグスト弱王」フリードリヒ・アウグスト・フォン・ザクセン

フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセン(1696年10月17日-1763年10月5日) 1756年頃 ルイ・ド・シルヴェストル アルテ・マイスター絵画館
フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセン(1696年10月17日-1763年10月5日) 1756年頃 ルイ・ド・シルヴェストル アルテ・マイスター絵画館

引用元:アウグスト3世

ポーランド王としては、アウグスト3世サス( August III Sas )、ザクセン選帝侯としては、フリードリヒ・アウグスト2世( Friedrich August II. )です。

父「アウグスト強王」

「アウグスト強王」(1670年5月12日-1733年2月1日) 1720年以前 ルイ・ド・シルヴェストル
「アウグスト強王」(1670年5月12日-1733年2月1日) 1720年以前 ルイ・ド・シルヴェストル

引用元:「アウグスト強王」

怪力の持ち主で、庶子の数が300人以上いたという「アウグスト強王」。

ポーランド王・ザクセン選帝侯、アウグスト2世は東洋磁器の収集家としても大変有名です。

マイセンのアルブレヒト城に「錬金術師」ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁の研究に当たらせたのもアウグスト2世でした。

父アウグスト2世は「強王」と呼ばれましたが、跡継ぎ息子であるフリードリッヒ・アウグスト・フォン・ザクセンは陰で、「アウグスト弱王」などと呼ばれていたそうです。

政治にはあまり関心は無かったご様子です。

また、父と違って磁器にはそれほど興味がなく、絵画収集に熱心でした。

アウグスト三世は、とくに一六世紀のイタリア・ルネサンス絵画の巨匠、一七世紀のオランダ・バロック絵画の巨匠作品に質の高いコレクションを形成し、きわめて高い評価を受けている。その一方で彼は、同時代のイタリアやドイツの画家たちをドレスデンの宮廷に招聘するなど、同時代の芸術保護にも積極的であった。

前田正明・櫻庭美咲(著).2006.『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』.角川選書.p.133,

妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ( Maria Josepha von Österreich, 1699年12月8日-1757年11月17日)

妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵
妃マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1699年12月8日-1757年11月17日) 1720年 ロザルバ・カッリエーラ アルテ・マイスター絵画館蔵

引用元:マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ

1719年8月、フリードリヒ・アウグストは、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であるマリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒと結婚しました。

マリア・ヨーゼファとオーストリアのマリア・テレジアは従妹に当たります。

マリア・ヨーゼファの父であるヨーゼフ1世と、マリア・テレジアの父のカール6世(次の神聖ローマ皇帝)は兄弟です。

妻となったマリア・ヨーゼファにとり、アウグスト3世は良き夫で家庭も円満。

夫妻の間には多くの子供が生まれました。

アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ 1750年頃 ミニアテュア 作者不明
アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ 1750年頃 ミニアテュア 作者不明

引用元:アウグスト3世とマリア・ヨーゼファ

「王妃に枯れない花を贈りたい」というアウグスト3世の命令により、磁器の花、美しい「スノーボール」が生まれました。

マイセンの食器や花瓶に見られる小花の装飾です。

1739年のことでした。

可憐なスノーボールで飾られた壺 マイセン動物園展(2019-21)
可憐なスノーボールで飾られた壺 マイセン動物園展(2019-21)
アウグスト3世像 ケンドラー作、マイセン 
アウグスト3世像 ケンドラー作、マイセン

引用元:アウグスト3世像 ケンドラー作、マイセン

オーストリア継承戦争(1740年-1748年)

1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなります。

カール6世には後継となる男子がいませんでした。

いるのは大公女・マリア・テレジア(当時23歳)。

政治経験もなく、今また次の子供を妊娠中でした。

マリア・テレジア(1717年5月13日-1780年11月29日) 1742年頃 マルティン・ファン・マイテンス スロベニア国立美術館蔵
マリア・テレジア(1717年5月13日-1780年11月29日) 1742年頃 マルティン・ファン・マイテンス スロベニア国立美術館蔵

引用元:マリア・テレジア

生前、カール6世が娘のマリア・テレジアを後継者にするべく奔走したにも関わらず、承認したことなど忘れたかのように、マリア・テレジアの相続に対し、フランス王、バイエルンやザクセン王が反対の声を上げます。

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの妃はマリア・アマーリエといい、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であり、マリア・ヨーゼファの妹でした。

神聖ローマ皇帝カール7世(バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)の妃、マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(1701年10月22日-1756年12月11日)
神聖ローマ皇帝カール7世(バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)の妃、マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(1701年10月22日-1756年12月11日)

引用元:マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト (1697年8月6日-1745年1月20日)
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト (1697年8月6日-1745年1月20日)

引用元:バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、自分の妃が神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であることを理由に、マリア・テレジアの継承に異を唱え、ベーメン王位をも要求します。

しかも、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが帝位を要求した。彼はカール六世の先代であるヨーゼフ一世の娘を妻にしていたのだ。ミュンヒェンの政府は二〇〇年前にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家の間でとり交わされた証文を盾にとった。一五四六年のこの古文書には、ハプスブルク家が男子の相続人を失った時にはバイエルンが皇位を相続するもの、と定められていたのである。

飯塚信雄(著).『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』.中公新書1152.

更に、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)はいち早くオーストリア領シュレージエンに侵攻し、武力で奪い取ってしまいます。

オーストリアを狙う敵たちを相手に、マリア・テレジアはこの難局を乗り切らねばなりませんでした。

プロイセン王フリードリヒ2世(1712年1月24日-1786年8月17日) 1781年頃 アントン・グラフ サンスーシ宮殿
プロイセン王フリードリヒ2世(1712年1月24日-1786年8月17日) 1781年頃 アントン・グラフ サンスーシ宮殿

引用元:プロイセン王フリードリヒ2世

オーストリア・ザクセン戦争

1741年、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世は、ハプスブルク家領の相続権を主張。

ボヘミアに侵入します。

「ヨーゼフ1世の娘である妻のマリア・ヨーゼファにも相続の資格がある」との言い分でした。

  そう、大王の犯罪にザクセン選帝侯国も加担したのである!ちなみにこのとき、あのアウグスト強健侯はすでになく、同名の息子アウグストが選帝侯かつポーランド王に納まっていた。

彼の妃はハプスブルク家から輿入れしたマリア・ヨーゼファである。彼女は実家ハプスブルクに弓引く婚家の決断を支持した。なぜならうまくいけば自分が従妹のマリア・テレジアの代わりに皇妃になれるのだ!

菊池良生(著).『神聖ローマ帝国』.河出書房新社.pp.94-95.

しかし、マリア・ヨーゼファが狙っていた?皇妃(皇帝妃)の位は、バイエルン選帝侯妃である妹マリア・アマーリエに奪われてしまいます。

その後、和平交渉によりザクセン軍は撤退。

1742年、 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠しました。

その3年後の1745年、カール7世が死去します。

  カール七世が死ぬと、フランスは次の皇帝にザクセン選帝侯アウグスト三世を推した。しかしアウグストは、父の強健侯とは似ても似つかぬ無為の人であった。覇気は毛筋にも感じられない。政治は寵臣に任せきりである。その寵臣がこの継承戦争に腰砕けになれば、ザクセン選帝侯もたちまちのうちにそうなる。このフランスの申し出に、一瞬心ときめいたのは選帝侯妃マリア・ヨーゼファである。しかし、夫の無気力が彼女の皇妃への道を鎖(とざ)してしまった。

菊池良生(著).『神聖ローマ帝国』.河出書房新社.p.96.

プロイセンに奪われたシュレージエンは戻って来ませんでしたが、神聖ローマ帝国の皇帝位はマリア・テレジアの元に戻って来ました。

1745年、マリア・テレジアの最愛の夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位します。

皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使したため、一般に「女帝」マリア・テレジアといわれるが、彼女は公式には女帝ではなく、皇帝妃であったのである。

加藤雅彦(著).2018.『図説 ハプスブルク帝国(ふくろうの本/世界の歴史)』.河出書房新社.pp.46-47.
フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)(恐らくマイテンス画)
フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)(恐らくマイテンス画)

引用元:フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン

フランツ・シュテファンはマリー・アントワネットたちの父親です。

アウグスト3世夫妻の娘マリア・ヨーゼファの息子はフランス王ルイ16世

フランスの画家・ジャン=マルク・ナティエが描く優美な女性の肖像画。

こちらの女性は、夫妻の娘のひとりです。

マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(1731年11月4日-1767年3月13日) 1751年頃 ナティエ ヴェルサイユ宮殿
マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(1731年11月4日-1767年3月13日) 1751年頃 ナティエ ヴェルサイユ宮殿

引用元:マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン

母親マリア・ヨーゼファと同名の彼女のフランス語名は、「マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス」。

フランスに嫁いだ後、ある有名な人物の母となります。

その人物とはフランス国王ルイ16世。

フランス国王ルイ16世(1754年8月23日-1793年1月21日) 1788年 アントワーヌ=フランソワ・カレ ヴェルサイユ宮殿
フランス国王ルイ16世 1788年 アントワーヌ=フランソワ・カレ ヴェルサイユ宮殿

引用元:フランス国王ルイ16世

ルイ16世の妃はマリー・アントワネットです。

『バラを持つマリー・アントワネット』 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿
『バラを持つマリー・アントワネット』 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿

引用元:『バラを持つマリー・アントワネット』

王族同士の結婚では、いとこや、またいとこ同士というのはよくあることです。

神聖ローマ皇帝の娘で、ザクセン選帝侯妃となったマリア・ヨーゼファと、同じく神聖ローマ皇帝の娘で、自身は皇妃となった従妹のマリア・テレジア。

彼女たちの孫や娘が別の国で結婚するのです。

こうした巡り合わせというのは大変面白いですね。

『マイセン』 玉川大学出版部

マイセン磁器の書籍はいろいろ出ています。博物館クラスの作品を書籍で見ては自分で所有している気になるのですが、本はどれも大きくて厚くて狭い部屋では維持するのも結構タイヘン。

この『マイセン』はそんなに厚くありません(笑)。

著者の南川さんの写真はいつも素晴らしく、知識もお持ちで、この方の著作なら間違いないと思っています。

主な参考文献
  • 前田正明・櫻庭美咲(著).2006.『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』.角川選書.
  • 飯塚信雄(著).『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』.中公新書1152.
  • 菊池良生(著).『神聖ローマ帝国』.河出書房新社.
  • 加藤雅彦(著).2018.『図説 ハプスブルク帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)』.河出書房新社.
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