テューダー朝第4代、9日間だけの女王ジェーン・グレイ。
なぜジェーンが、ヘンリー8世の王女であるメアリーやエリザベスを差し置いて女王になったのか、主要人物の肖像画を使って解説します。
今回は前編です。

ジェーン・グレイ( Jane Grey, 1537年10月12日?-1554年2月12日)

引用元:ジェーン・グレイ
イングランド史上初の女王ですが、9日間の在位だったことから「9日間女王」として知られています。
初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイと、その妻フランセス・ブランドンの間に生まれました。
上の肖像画はジェーンの死後描かれたものです。
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』 1833年 ポール・ドラローシュ

19世紀フランスの画家・ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche、1797年7月17日-1856年11月4日)による歴史画です。
1554年のジェーンの処刑場面を描いたものですが、実際には処刑は屋外で行われました。
ジェーンの血統
イングランド国王ヘンリー7世

引用元:ヘンリー7世
テューダー朝最初の王となったヘンリー7世です。
メアリー王女の政略結婚

引用元:ヘンリー8世
イングランド王ヘンリー8世は妹のメアリーを、フランス王ルイ12世に嫁がせようとします。
しかしメアリーは、ヘンリー8世の家臣チャールズ・ブランドンと恋仲でした。

引用元:メアリー・テューダー

引用元:チャールズ・ブランドン

引用元:ルイ12世
メアリーは政略結婚を承知し、父親ほどの年齢のルイ12世に嫁ぐことになりました。
しかしもし夫が亡くなったら、その後は好きな男性と結婚させて欲しいと兄ヘンリー8世に頼み、そのことを約束させます。
1514年8月13日、 メアリーはルイ12世と結婚します。
その約3ヵ月後の1515年1月1日、ルイ12世は死去。
(早く恋人と一緒になりたいメアリーは、年相応の静かな生活を送っていたルイを宴席や狩猟などに引っ張り出し、ルイの死期を早めた、との説があります)
1515年2月、次のフランス王フランソワ1世の後押しで、メアリーはチャールズと秘密結婚します。

引用元:フランソワ1世
「好きな男性と結婚させて欲しい」というメアリーとの約束など守る気がなかったヘンリー8世は激怒しますが、結局、1515年5月13日にふたりは正式に結婚しました。

引用元:メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン
夫妻の間に生まれた子どものひとりに、フランセス・ブランドン( Lady Frances Brandon )がいます。

引用元:フランセス・グレイ
フランセスは後のサフォーク公となるヘンリー・グレイと結婚し、ジェーンたち姉妹が生まれました。

引用元:ジェーン・グレイまたはAmy Robsartと言われる1535年頃の細密肖像画

引用元:キャサリン・グレイ

引用元:メアリー・グレイ
祖母がイングランド王女という、由緒正しいジェーンの血統に目を付けたのが、初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーでした。
ヘンリー8世の妻と子どもたち
最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとメアリー1世

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
キャサリンはスペインのカトリック両王の末娘です。
最初はヘンリー7世の長男アーサーと結婚しましたが、アーサーは病死し、弟のヘンリーと結婚します。
ヘンリーとの間に、娘メアリー(後のイングランド女王メアリー1世)をもうけました。

引用元:メアリー1世
2番目の妻アン・ブーリンとエリザベス1世

引用元:アン・ブーリン
跡継ぎとなる男の子を熱望するヘンリー8世は、キャサリンと離婚するため国の宗教を変えてしまいます。
ヘンリー8世はキャサリンの女官だったアン・ブーリンを王妃に迎えましたが、アンは女児エリザベスをもうけたのみで、王子を産むことができませんでした。
このエリザベスが後のイングランド女王エリザベス1世です。

引用元:エリザベス1世
3番目の妻ジェーン・シーモアとエドワード6世

引用元:ジェーン・シーモア
跡継ぎが欲しいヘンリー8世は、アンを処刑し、アンの侍女だったジェーン・シーモアと結婚します。
1537年、ジェーンは男児エドワード(エドワード6世)を出産し、産褥死しました。

引用元:エドワード6世
待望の男児を得たヘンリー8世。
しかし、王子のエドワードは病弱でした。
ヘンリー8世はジェーンの死後も再婚を繰り返しましたが、1547年1月に亡くなります。
イングランド王エドワード6世( Edward VI of England, 1537年10月12日-1553年7月6日)

1547年、エドワードは、父王ヘンリー8世の死により、9歳で王位に就きます。
母方の伯父にあたるエドワード・シーモアはサマセット公となり、幼いエドワード6世を意のままにしようとします。
しかし、エドワード・シーモアはジョン・ダドリーとの権力闘争に敗れ、1552年に大逆罪で処刑されました。

初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリー(John Dudley, 1st Duke of Northumberland, KG, PC、1502年-1553年8月22日)

政敵エドワード・シーモアに代わり、ジョン・ダドリーがエドワード6世の寵臣として権力を握りました。
エドワード6世自身が熱心なプロテスタントだったことから、ジョン・ダドリーはプロテスタント寄りの政策を進めます。
ジョン・ダドリーには病弱なエドワードの人生がそれほど長くないことがわかりました。
エドワードが亡くなった場合、次の王位継承権者はヘンリー8世の王女たち、メアリーとエリザベスです。
ふたりは一時庶子の身分に落とされましたが、ヘンリー8世の最後の王妃となったキャサリン・パーの尽力によって身分を回復されていました。

引用元:キャサリン・パー
キャサリン・パーはテューダー朝の才媛のひとりです。
母を処刑されたエリザベスは、彼女を母親のように慕っていました。
ジェーン・グレイも一時キャサリンのもとへ預けられていました。
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーは自分の息子のひとり、ギルフォードとジェーン・グレイを結婚させることを考え始めます。
ジェーンが王位に就き、ギルフォードとの間に男児が誕生すれば、自分が王の祖父となることができるのです。


引用元:ロバート・ダドリー
ギルフォード・ダドリー卿( Guildford (Guilford) Dudley )の兄弟に、後に女王となるエリザベス1世の寵臣・ロバートがいます。
独身を通したエリザベスでしたが、ロバートとは結婚も考えたと言われています。
最初にノーサンバランド公ジョン・ダドリーが目を付けたのは、エドワードと同じ穏健派のプロテスタントのエリザベスだったようです。

引用元:1546年頃のエリザベス
しかし、聡明なエリザベスは自分の言いなりにならないかもしれない。
熱心なカトリック教徒であるヘンリー8世の長女メアリーが王位に就けば、カトリックによる弾圧が始まり、プロテスタントである自分も無事では済まないかもしれない。
本来であれば王位継承の順位からは遠いジェーンですが、ジョン・ダドリーは自分の本心を隠し、エドワード6世に迫ります。
プロテスタントの後継者を立てることの重要性を説き、ジェーンを次の後継者とすることを了承させました。
エドワード6世は1553年7月、ジェーン・グレイを次の女王に指名し、15歳で崩御しました。
1553年5月21日、ジェーンとギルフォードの結婚
エドワードの死の2ヵ月ほど前のこと。3組の男女の結婚式が行われました。
この結婚の花嫁と花婿は、
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの次女キャサリン・ダドリーと、ハンティントン卿の長男ヘイスティングス、
ジェーン・グレイとギルフォード・ダドリー、
ジェーンの妹キャサリンとペンブローク卿(ぺンブルクとも表記)の長男ハーバートでした。
この時ジェーンは15歳、ギルフォードは17歳ほど。
勉強熱心で、ギリシャ語でプラトンを読みこなす才媛のジェーンに対し、長身で美男のギルフォードは甘やかされて育ち、酒と女性と賭け事が大好きな軽薄な聖年でした。
ジェーンはギルフォードとの結婚を嫌がりましたが、両親の命令には逆らえませんでした。
ジェーンの結婚を喜んだエドワード6世は、ジェーンに多くの衣装や宝石を贈りました。
エドワード6世の健康状態が悪化するなか、ジョン・ダドリーは、ジェーンの母フランセスに彼女自身の王位継承権を放棄させます。
瀕死のエドワード6世はジェーンを後継者に指名し、7月6日、16歳になる前に亡くなりますが、ジェーンはエドワードの病状が深刻なものだったことを直前まで知らなかったようです。
その数日後、ジェーンはエドワード6世の死を知らされると共に、自分が次期女王に指名されたことを知ります。
メアリーやエリザベスといった王女たちを差し置いて何故自分が…、と王位に就くことを拒みますが、義父ジョン・ダドリーや夫ギルフォード、両親から「亡き国王のご意思だ」と取り囲まれて説得され、ジェーンは運命を受け入れざるを得ない状況に陥ります。
果たして、この時彼女はジョン・ダドリーの真の目的に気付いたのでしょうか。
一方、メアリーとエリザベスの方ですが、
エドワード6世の死後、ノーサンバーランド公はその死を2日間発表しなかった。そのあいだに彼はメアリとエリザベスに国王が瀕死の床にあることを知らせ、臨終に立ち会うようにと使いを出した。実際はおびき寄せて、二人の身柄を拘束する計画であった。
エリザベスはいつもの用心深さで、病気を理由に召還に応じなかった。そして何か自分に伝えたいことがあるなら、その前に姉のメアリに連絡してくれと慎重に返事してきた。
メアリはハートフォードシャーに滞在していたが、半信半疑ながら出発し、グリーンウィッチに進んだ。
このとき、メアリは一人のロンドンからの使者に出会った。使者は、ノーサンバーランド公からの召還は罠であり、すでにエドワードはこの世の人ではないと断言した。しかし、メアリはこれこそが、ノーサンバーランド公から仕掛けられた罠ではないかと疑った。
万が一それを信じて彼女がイングランド女王であることを宣言し、その後でエドワードが生きていることがわかったりしたら、彼女は一転、大逆罪に問われることになる。
どうしたら良いか決めかねて、メアリは5~6人の腹心のみを従えて、ケニング城へと向きを変えた。ノーフォークにおけるハワード家の本拠である。メアリは海岸近くに滞在することで、万が一追手が迫った場合、ここからスペイン支配下のネーデルラントにむけて逃亡するつもりでいた。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 桐生操(著) 中経出版 P177)

ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンと、5番目の妃キャサリン・ハワードは、トマス・ハワードの姪に当たります。

ちなみに、メアリーが逃亡先に考えたネーデルラントは当時スペイン領でしたが、スペインはメアリーの母キャサリン・オブ・アラゴンの実家であり、スペイン王にして神聖ローマ皇帝であるカール5世は従兄に当たります。

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
ジェーン、女王としてロンドン塔に入る
イングランド国王は統治の最初の日々をロンドン塔で過ごすことになっていたので、ジェーンはその伝統に従い、シオン館を出てロンドンのダラム館に向かった。そこから舟でロンドン塔に向かい、そこに到着したのは午後4~5時ごろだった。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P178)
ロンドン塔入りしたジェーンの姿を間近で見たジェノヴァの商人は、彼女の容姿についてこのように書き残しているそうです。
「女王は非常に小柄でほっそりしていた。しかし格好が良く優雅だった。 小作りな目鼻だちで、形の良い鼻、しなやかな唇、そして唇は赤かった。
眉毛はアーチ型をしており、赤に近い色の髪の毛より黒い色をしていた。その目はヘーゼル色できらきら輝いていた」
さらに商人はジェーンの顔色は美しいがそばかすが多いことや、微笑むとき真っ白で尖った歯がのぞくことなどにも触れている。
しかしそばかすだらけの顔は、ジェーンが一番コンプレックスを抱いているところだった。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P180)
エドワード6世の崩御を突然知らされた民衆は戸惑い、さらには次の王となるべきメアリーの姿が無いことに戸惑い、新女王であるジェーンに対しての反応は薄いものだったといいます。
着々と準備は整って行きますが、そのなかでジェーンはギルフォードを共同統治者に据えることを拒みます。
ギルフォードは親から予め言い含められていたように、女王の夫である自分も「王」または「共同統治者」になれると考えていたのかも知れませんが、ジェーンは周囲の説得や懇願には耳を貸しませんでした。
7月12日、メアリーはサフォークから枢密院にあて、
「かくも重大な」弟王の死を知らせてくれなかったことに対して遺憾の意を表明した。そしてただちに「彼女の国土における彼女の王冠と政府に対する権利と称号」を、彼らの忠誠において、ロンドン市にて宣言することを要求した。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P189)
メアリーの元には支持者が集まり、次第にその勢いを増して行きました。
出兵したノーサンバランド公ジョン・ダドリーの兵士にもメアリー側に寝返る者が急増します。
ロンドン塔に入っていた有力貴族たちも塔を出て、メアリーに忠誠を誓う者も出ました。
ノーサンバランド公の野心を知っていた民衆たちは、プロテスタントの信仰より、メアリーが次期王位継承者であるという「王冠の正統性」を重んじたようです。
そして7月19日、メアリーは「イングランド女王メアリー1世」となります。

引用元:メアリー1世のブロンズ製メダル sailko CC-BY-SA-3.0
両親も去ったロンドン塔に残るジェーン。
翌朝になり、ジェーンはギルフォードと共に逮捕されます。
枢密院はジェーンに、彼女が「横領した」女王の称号とその地位に関する一切の特権や儀典を返還するよう命じてきました。
ギルフォードはボーシャン・タワーの最上階の小部屋に、ジェーンはタワー・グリーンのならびにある看守用の住居に、それぞれ閉じ込められます。
ジョン・ダドリーも逮捕され、幽閉されました。
メアリーとは従姉妹同士であり、友人としても以前から親しかったジェーンの母サフォーク公妃フランセス・グレイは、ロンドンに入城した女王メアリーのもとに駆け付け、夫への許しを懇願します。
夫ヘンリー・グレイは7月28日に逮捕されていました。
ヘンリーの釈放は聞き入れられ、その後フランセス自身も何事もなかったように宮廷の社交生活に戻ることができました。
ジェーンの妹で美貌の聞こえ高いキャサリンも、母とともにメアリ女王の侍女の職を得た。グレイ家との縁組を嫌悪したぺンブルク伯から結婚解消を言い渡され、実家に帰っていたのである。
ノーサンバーランド公爵夫人でさえ、逮捕の2~3日後に釈放された。夫や子供たちの釈放を嘆願したが、さすがにそれは容れられず、メアリ女王は彼女に追放を言い渡し、宮廷に5マイル以上近づかないよう命じた。
いずれにしても、ノーサンバーランド公を例外として陰謀の張本人たちがすべて自由を得ていた。ジェーンと夫のギルフォードをのぞいては。
理不尽だが、これが現実なのだった。サフォーク公爵夫人は釈放されてからも、牢獄にいる娘のためにメアリ女王に命乞いひとつしなかったという。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P206)
女王としてロンドン塔に足を踏み入れたジェーンでしたが、生きてそこを出ることは叶いませんでした。
後編へ続きます。
- 『怖い絵 泣く女篇』 中野京子(著) 角川文庫
- 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 桐生操(著) 中経出版
コメント
コメント一覧 (12件)
ことぶ㐂(ことぶき) (id:lunarcarrier)様
コメント有難うございます。
男も女も、この時代は大変だっただろうなあといつも思います。
昨日の友は今日は敵。弱みを見せたら殺られてしまう。ジェーンは最も気の毒なひとたちのひとりですね。
目立たない下位貴族なら貧乏でも気楽だったかもしれませんねえ。
今回も見て下さって有難うございました。
夏生・Natsumi (id:maskari)様
いつも有難うございます。
コメント頂けて嬉しいです。
最初、『レディ・ジェーン・グレイの処刑』の絵の話だけで終わらせようと考えていましたが、なぜ彼女が斬首されなければならなかったのかは、彼女の祖母の話をやった方がわかり易い(納得し易い)かなと思い、すんごく長くなってしまいました( ;∀;)
今回も付き合って下さって有難うございました。
森下礼 (id:iirei)様
遅くなって申し訳ありません。いつも有難うございます。
編年体寄りか、または紀伝体寄りですか?
あんまり難しいことは考えていませんでした。
そうですね、自分でもよくわからないのと答になっているか少々不安なのですが、例えば。
私は昔々『レディ・ジェーン・グレイの処刑』という絵に興味を持ちました。
以前は調べるのに苦労しましたが、現代ならネットの力で、割と簡単にこの絵について調べることができます。
なぜこの少女は処刑されなければならなかったのか。なぜ直系の王女たちを差し置いて女王になどなったのか。本当は屋外で処刑されたのではなかったか。
いろんな疑問が浮かびますが、ひとりのひとの人生一生分をできるだけわかり易く、簡単に、読んで下さる方に伝わるようにと思って書いています。後で読んでみようと思った方がその書籍を探しやすいように、書籍名を載せています。
参考書にはあまり小説仕立てのものは使わないようにしていて、主観は出来るだけ入れないようにしています。(でもどうしても入ってしまいます。)
読むだけならWikipediaを読んだ方がわかり易いかもしれませんが、同じ名前のひとが複数いたりするので、肖像画でイメージし易くしています。
年代順に進んだ方が、わかり易いかなあと思って並べることが多いと思います。
一連の出来事を知らないひとに「だから、処刑されるに至ったのか!」と合点していただければ成功です。
要は伝わりさえすれば何でもいいのです。
こんなアホ丸出しの答ですみません。
happy-ok3様
遅くなって申し訳ありません。
本当はもっと楽しく前向きになれるような話(実話)の方がいいなと思うのですが、あの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』の背景はやっぱり可哀想というか気の毒というか…。
そのうち敢えて悲劇以外のものにしようかなと思っています(笑)。
今回も見て下さって有難うございました。
当時の女性は、子供を産む道具で要ら無くなれば殺されたり、そうかと思えば女王になったりと、今の私にはどうにも理解できない立ち位置にいたんですね。
ジェーンが気の毒でなりません。
石山藤子 (id:genjienjoy)様
わぁ、世界史で勉強なさっていたんですか。
私はやったことがないから羨ましいです。習ってみたかった…。
ジェーンはほぼ完全な操り人形で、陰謀には加担していなかったようですが、わずか16歳で処刑されました。
この『ジェーン・グレイの処刑』を初めて観た時は何の絵か判らず、ロンドン塔にも行ったのに、日本に帰って来てわかりました💦
そしてこの絵こそが、当時とても観たかった映画(未公開)と関係があったと知り、勉強不足の悔し泣きでした。その後は渡英するたび、リベンジ鑑賞でした。
映画はどうしても観たくて英国のAmazonでDVDを買いました。(今は邦訳版が売られています。)
コメントも楽しく拝読しました。
今回も見て下さって有難うございました。
schun (id:schunchi2007)様
コメントを有難うございます。
見ていると、男女とも病気になればすぐに亡くなってしまい、女性は出産の際にも危険が伴う。庶民なら重税で生活苦、王侯貴族は陥れたり陥れられたり濡れ衣で処刑されたり。とにかくタイヘン(/ω\)と思ってしまいます。
現代日本はまだマシだなと。
今回も見て下さって有難うございました。
今回も興味深いお話で
登場人物の肖像画を上へ下へとスライドしながら
読ませていただきました(*^-^)
泥沼な政略結婚。
振り回された人達。😓
知らないことが沢山ありました。
勉強になります。
いつも、ありがとうございますm(_ _)m
私は中国史が好きで、とくに『史記』(司馬遷)がお気に入りです。彼のスゴイところは、従来の編年体(時代を追う)に対置して紀伝体(人物本位)でこの書を書き上げたこと。ヤクザまで、見所があると思えば、躊躇なく取り上げる。この視点はスゴイ、と思います。結果的には「生きた、活動する人間」を描き切ったのが『史記』です。この本以降の中国の歴史書は、『史記』を模範とするに至ったのです。
さて、ハンナさんのスタンスは、編年体寄り?それとも紀伝体寄り?ご自分では、いかがお考えですか?膨大な人間群像が、古代中国と同じく貴女の取り上げるヨーロッパ中世にもありますから。
こんにちは。今日も詳しく有難うございます。
ジェーンがかわいそうですね。
この時代の結婚は、政略的な事はあり・・・。
ロンドン塔から生きてそこを出る事はかなわなかったジェーン。
ジェーンの思いに心を寄せました、
今日も有難うございます。
ひえ~っ💦ものすごい権力闘争…
高校生の時、世界史の資料集にイングランド王家の家系図があって
ジェーン・グレイは王位が一年間しか書かれていない。
しかも同じ年にメアリー1世が即位?
ヘンリー8世の子どもでもないのに女王になった
ジェーン・グレイって何者?と思っていました。
まさか王位はたった9日間とは…(゜ロ゜ノ)ノ
しかも、操り人形にされた感がすごくある…
おはようございます。
なかなかお気の毒なお話ですね。
こういったときの流れってのがあるっていうこと自体怖いというか、昔の人は大変だったよなって思います。
今は今で大変な面もありますが、昔は今以上に、直接的な大変な場面ってのがたくさんあったんだろうなって拝見していて感じました。