テューダー朝第4代、9日間だけの女王ジェーン・グレイ。後編です。

イングランド女王メアリー1世(Mary I of England, 1516年2月18日-1558年11月17日)

引用元:メアリー1世

スペインのカトリック両王の王女キャサリンを母に持つメアリー。
若い頃のメアリーは魅力的な娘だったそうです。
しかし、父ヘンリー8世はキャサリンの女官だったアン・ブーリンに心を移し、キャサリンを離婚します。
母と引き離されたメアリーは、王妃となったアンからエリザベスに仕えるよう言われますが、それを拒否。
逆境のなか、苦労して生きてきました。
1553年7月19日、メアリーが王位に就く

メアリーを捕らえようとするノーサンバランド公ジョン・ダドリーから逃れ、メアリーはノーフォーク公に匿われます。
メアリーを支持する者は多く、戦いに敗れ、逮捕されたジョン・ダドリーはロンドン塔に幽閉されました。
王位に就いてわずか9日間で逮捕、投獄されたジェーン・グレイと、夫のギルフォード・ダドリー。
メアリーは最初、このふたりを処刑する気は無かったようです。
特にジェーンは、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーや両親の操り人形に過ぎないことは明らかでした。
ジェーンは牢獄の中で、メアリーに宛て、囚人の慣例として釈明の手紙を書きます。
「自ら進んで王冠を求めたこともなく、それを得たことに対しても満足したこともありません」
8月半ばにこの陰謀の首謀者であるジョン・ダドリーの裁判が開かれます。
裁判で、彼は、同じく投獄されていた自分の息子たちは父の命令に従っただけなので、どうか寛大な処置をお願いしたいと述べています。
ジョン・ダドリーが自身にも強く望んでいた恩赦はついに得られず、8月22日、タワー・ヒルで最後の演説を行い、斬首されました。
このころのジェーンの牢獄での生活は、必ずしも非人道的なものではなかった。4人のお付きを抱えることを許されていたし、庭を散歩することも許されていた。週に90シリングの額が彼女の食事と宿泊のために国庫からあてがわれ、さらに週に20シリングの手当てがそれぞれの召使いに支払われていた。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 桐生操(著) 中経出版 P213)
10月1日、メアリーの戴冠式がウェストミンスター大聖堂で行われます。
この時メアリーは37歳。
異母妹のエリザベスはまだ20歳でした。
メアリーの目にはエリザベスこそが自分の王位を脅かす存在として映ります。
また、もし自分に跡継ぎとなる子どもがいなかった場合、王位は憎いエリザベスに渡ってしまいます。
何としてもエリザベスには王位を渡したくない…。
強いカトリック信仰を抱き続けていたメアリにとって、父ヘンリがうち立てた国教会は、母や自らを苦しめた元凶であり、とうてい認められるものではなかった。ヘンリ8世に追われて大陸へ逃れていた、王家につながる血統の枢機卿レジナルド・プールを迎え、ローマ教会との和解を達成した。
(『イギリスの歴史』 指昭博(著) 河出書房新社 P53)
10月にメアリー統治の最初の枢密議会が開かれ、エドワード6世の時代に議会を通過した一切の信仰に関する法律が廃止された。
こうして英国国教会はヘンリー8世の統治時代の状態にもどったわけであり、この処置は一応、プロテスタント、カトリック双方の大多数を満足させるはずであった。
しかし皇帝大使のルナールは、メアリの政策が弱さの現れと国民に解釈されないかと危惧していた。彼は国民がメアリの政策を好き勝手に解釈し、それを嘲笑しているとメアリに忠告した。それに動かされたのか、メアリはそれまでの感情を一変させ、ジェーンとその夫に対して第一級の罰を与えるようにと裁判官に指示を与えたともいわれる。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P219)
ルナールは神聖ローマ皇帝カール5世の大使です。
スペイン王でもあるカールはメアリーに対し、宗教の変更を強硬に進めるべきではないと考えていました。
しかしこの後のプロテスタントに対する迫害、弾圧で多くの血を流したことから、メアリーは「血まみれメアリー(ブラディ・メアリ)」の名で呼ばれることになります。

引用元:シモン・ルナール
11月、ジェーンたちの裁判
11月14日。ジェーンとギルフォードの裁判が行われ、ふたりは久しぶりに顔を合わせました。
ジェーンたちは裁判の行われるギルドフォードに向かいますが、
先頭にはジェーンとそれにつき従う二人の侍女、その後に夫ギルフォードが、さらに同じ日に異端の罪で裁かれることになるクランマー大主教が、そしてその後にギルフォードの二人の兄であるヘンリーとアンブローズが続く。ロンドン塔の長官と400名の鉾槍を手にした近衛兵らが、彼らをエスコートした。
どちら側からも証人は出廷せず、囚人に対する詳細な尋問もなく弁護もなかった。ジェーンの予想どおり、罪状は最初からとうに決められていたのである。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P222)
カンタベリー大司教トマス・クランマー(Thomas Cranmer, 1489年7月2日-1556年3月21日)

引用元:トマス・クランマー
ケンブリッジ大学教授を務めたカンタベリー大司教トマス・クランマーは、ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚及びヘンリーとアン・ブーリンの再婚を承認した人物です。
エドワード6世の治世では宗教改革の指導者として働きましたが、メアリーが王位に就くとプロテスタントは迫害され、クランマーも逮捕されます。
1556年3月21日、オックスフォードで火炙りにされ、殉教しました。
ギルフォードの兄弟は彼らの父に従っただけということで、無罪となります。
しかし、ジェーンとギルフォードは死刑判決を受けました。
ギルフォードが真っ青になってがっくり肩を落とす一方、ジェーンは取り乱すことなく気丈に耐えていました。
ジェーンの裁判を聞いていた傍聴人の間からは同情の声が上がりました。
メアリーの結婚
自分の血を分けた王位継承者を望むメアリーの元へ、スペインから結婚の話がもたらされます。
相手は、従兄であるカ―ルの息子フェリペでした。
フェリペ(1527年5月21日-1598年9月13日)

引用元:フェリペ2世

引用元:メアリー1世
プラド美術館に在る、アントニス・モルによるメアリーの肖像画です。
胸にはフェリペから贈られた真珠「ラ・ペレグリーナ」を着け、手にはテューダーを象徴する赤バラを持っています。
11歳年下のスペインの皇太子、フェリペの肖像画を見たメアリーは彼に恋をしました。
当時フェリペは従妹だった最初の妻と死別していましたが、既に嫡男も庶子もいました。
偉大な父王カールの意向に、フェリペは文句も言わずに従います。
スペイン側にはイングランドの金と軍隊、引いてはイングランドを手に入れるという考えがありましたが、今まで苦労を重ねてきたメアリーは彼を「神からの授かりもの」と思ってしまっていたようです。
一方、メアリー自身は、このことを何も知らなかった。彼女は自分の結婚がすばらしいロマンスになると思っていた。誰かに愛されたくてたまらなかった彼女は、若くてハンサムな夫を見せびらかすのを楽しみにしていた。哀れなメアリーは、フェリペを神からの授かりものと信じていたが、それはすべて幻想に過ぎなかった。
(『ダークヒストリー 図説イギリス王室史』 ブレンダ・ラルフ・ルイス(著) 樺山紘一(日本語版監修) 高尾菜つこ(訳) 原書房 P168)
メアリーに対する反乱
10月の終わり頃、メアリーは大使ルナールにフェリペとの結婚を決めたことを伝えます。
スペイン側は大喜びでしたが、イングランド側はこの知らせに驚愕しました。
メアリーがスペインの王子と結婚したならば、イングランドはスペインの臣下になってしまうかもしれないのです。
民衆も貴族も大反対しますが、翌年1月14日、メアリーとフェリペの婚約が正式に発表されました。
この婚約で示された条件は、イングランドでは女王メアリーの立ち場はフェリペより上であること、スペイン人は王国内の職務においていかなる役職も与えられないなど、フェリペを驚かせるものでした。
しかし、イングランドの人々は「外国人の王など持つつもりはない」として、一気にメアリーに対する反感を強めてしまいます。
そして、イングランド国内の3ヵ所で、メアリーに対する反乱が起きました。
ひとつは「エリザベスを女王に」とするピーター・カルーの反乱です。
ふたつ目の反乱、それはジェーンの父サフォーク公ヘンリー・グレイが、自分の弟らと共に起こした反乱でした。
ヘンリー・グレイはメアリーの結婚反対を主張しましたが支持はほとんど得られず、逃亡先で捕らえられました。
三つ目の「ワイアットの乱」は、トマス・ワイアットによる、メアリーとスペインのフェリペの結婚への抗議行動です。
この反乱は鎮圧されましたが、宮廷の重臣たちは、ジェーンが生きている限り、誰かがまたジェーンを女王に担ごうとするかもしれないと考えます。
ジェーンを極刑にすべきだと主張する者たちも出始めました。
それまでジェーンに対して恩赦を考えていたメアリーは「ワイアットの乱」の翌日、ジェーンとギルフォードの死刑執行令状に署名しました。
執行の日は2月9日。
2日後でした。
ジェーン、改宗を拒否
メアリーの命令を受け、カトリックの神学者・ジョン・フェッケナム博士(1515年頃-1584年10月)が牢獄のジェーンの元にやって来ます。
博士は2日でジェーンをカトリックに改宗させるように言われていましたが、既にこの世を去る覚悟を決めたジェーンは首を縦に振りませんでした。
フェッケナム博士がメアリーにそう報告すると、メアリーから更に3日の猶予を与えられます。
信仰を捨て、カトリックに改宗すれば、命だけは助けてやろうというのです。
死刑は一旦延期されましたが、ジェーンは改宗を拒みます。
その後ジェーンは死出の旅に着る黒い衣装を選び、最期に行うスピーチ、形見の品、遺書を準備するのでした。
形見として、妹のキャサリンにはギリシャ語の聖書を、父サフォーク公ヘンリー・グレイには祈祷書を送ろうとします。
ジェーンは父に宛てて、長い遺書を書きました。
彼女は知りませんでしたが、その時父は自分の弟と共にロンドン塔に送られていました。
サフォーク公ヘンリー・グレイは2月23日に斬首されています。
処刑直前、ギルフォードがジェーンに会いたいと伝えて来ました。
メアリーは許可しましたが、ジェーンは面会を断ります。
ジェーンは、
いま彼と会うことは、お互いが神聖な静寂さのなかで死出の支度をする妨げになるだけだと付け加えて。
「離れ離れになるとしても、それは一瞬のことにすぎません。わたしたちはすぐにあの世で再会することができるでしょう。そこでわたしたちの愛は永遠に結ばれ、死も失望も不運もそこではわたしたちにもはや届くことはなく、わたしどもの永遠の幸福を邪魔することはできないでしょう」
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P244)
2月12日、処刑
朝10時。
ジェーンは自室の窓から、ボーシャン・タワーから引き出されたギルフォードが刑場に向かう姿を目にします。
死刑判決が出た時は泣き叫んだという彼は、今は顔をまっすぐに上げていました。
無言で見送ったジェーンでしたが、ギルフォードの遺骸が載った荷車が戻ってきたのを見て、「ギルフォード、ギルフォード(”Oh, Guildford, Guildford.”)」と悲痛に呟いたのをそばにいたひとが聞いたそうです。
そしてついに、ジェーン自身の番が来た。彼女は王家の血を引いているため、公開処刑されたギルフォードと違い、タワー・グリーンの人目につかない場所で処刑されることになっていた。
ドアが叩かれ、ロンドン塔長官代理のジョン・ブリッジがジェーンを迎えにきた。侍女のエレン夫人と若いエリザベス・ティル二―は、堪えきれずに声をあげて啜り泣いた。しかしジェーンはうろたえることなく、ジョン・ブリッジの手に支えられ、処刑台への道を歩みだした。片方の手には、あの祈祷書をしっかりと抱いて。
見上げると処刑台の上では、真紅の服を着た処刑執行人が彼女を待っている。階段を上がりきると、ジョン・ブリッジ卿は脇に退き、ジェーンは処刑を見物するために集まった少数の人々のほうを向いた。
昨夜何度も繰り返し練習した演説である。自然にすらすらと言葉が流れ出した。
(『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 P248)
演説を終えたジェーンは身に着けていたものを侍女のエリザベスに渡し、慣例に従って、死刑執行人に許しを与えます。
それから藁の上に立ち、ハンカチで自ら目を覆って首の後ろで縛りました。
暗闇のなか、彼女はレンガの台のある場所を見失ってしまいます。
ジェーンは震えながら呟きました。
「わたしはどうすればいいのですか。ここは何処なのですか」(”What shall I do? Where is it?”)
誰か、恐らくThomas Brydgesなる人物の手が、ジェーンの肩に触れます。
その手が優しく彼女の体を押し出してくれたおかげで、ジェーンはようやくレンガの台に辿り着くことが出来ました。
台を抱き、そのくぼみに頭を載せたジェーンは最後の言葉を口にします。
「神よ、御手にこの身を捧げます!」(”Lord, into thy hands I commend my spirit!”)
死刑は執行され、ジェーンはギルフォードと同じ場所に葬られました。

ジェーン・グレイは反逆者として裁かれたので、処刑は宮殿どころか屋内ですらなく、ロンドン塔の広場で貴族たちに公開で行われた。胴から離されたジェーンの首は、処刑人に髪をむんずと掴(つか)まれ、みんなによく見えるよう高々と掲げられたし、遺体はその場に4時間も放置されたままだった。
(『怖い絵 泣く女篇』 中野京子(著) 角川文庫 P12)
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』 1833年 ポール・ドラローシュ ナショナル・ギャラリー蔵

ロンドン留学中の夏目漱石も魅了されたという、19世紀フランスの画家・ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche、1797年7月17日-1856年11月4日)による歴史画。

きわめて演劇的な、計算されつくした画面。
左に巨大な円柱があり、宮殿の一間とおぼしき場所で処刑が行われようとしている。その円柱にすがりつき、背中を見せて泣く侍女と、失神しかける侍女。後者の膝におかれたマントと宝石類は、直前までジェーンが身につけていたものだ。斬首の際、邪魔になるので脱がねばならなかった。
若き元女王は真新しい結婚指輪だけを嵌(は)め、サテンの艶(つや)やかな純白ドレスは花嫁衣装のようでもあり、自己の潔白を主張するかのようでもある。目隠しをされたため、首を置く台のありかがわからず手探りするのを、中年の司祭が包み込むように導こうとしている。台には鉄輪が嵌められており、動かないように鎖で床に固定されている。ジェーンの身分を考慮した房付きの豪華なクッションが足もとにあり、ここに腹這(はらば)いとなって首を差し出すのだ。床には黒い布が敷かれ、その上に血を吸うための藁(わら)が撒(ま)いてあるのが、その先を想像させて胸を衝(つ)く。
(『怖い絵 泣く女篇』 P8)
『怖い絵』によると、赤い下ばき(ホーズ)の死刑執行人は斧を持っています。これで罪人の首を落とそうというのですが、彼の腰にはナイフとロープもあります。
ロープは手を縛るためのもの。ナイフは、首の切断に必要なものでした。
「人道的な」ギロチンが発明される以前の斬首には、はなはだ失敗が多かった。髪の毛で刃先が滑ったり(だからジェーンは髪を束ねてうなじを出している)、処刑人の腕が未熟だったり(一撃で終わらせるにはかなりの技量を要した)、精神集中がうまくゆかないこともある(衆人環視のもと、処刑人にかかるプレッシャーは相当のものだった)。
(『怖い絵 泣く女篇』 P9)

引用元:首を載せる台に導かれるジェーン
ジェーンの右にいるのは、ジョン・ブリッジ John Brydges, 1st Baron Chandos とWikipediaにあります。

引用元:膝の上の宝石類

引用元:ドラローシュによる習作

引用元:死刑執行人と女官たちの習作

引用元:ルーヴル美術館所蔵の習作
『ジェーン・グレイ』 1545年頃 個人蔵

ジェーンの肖像画?
『イギリスの歴史』(河出書房新社)では、ジェーン・グレイとしてこの絵が掲載されています。
補足
映画『レディ・ジェーン』
ジェーンはギルフォードのことをどう思っていたのでしょう?
ジェーンの想い人はエドワード6世だったようですが、本当のところは?
映画『レディ・ジェーン』では愛し合うジェーンとギルフォードの姿を描いた物語になっています。
日本の映画雑誌で記事になった時からずっと観たいと思っていました。
それまでジェーン・グレイという名は聞いた事も無く、恋愛ものを観たいというより、きちんとした時代考証をされている映画と記事にあったので、1500年代の衣裳や食事風景などを見てみたかったのです。
日本ではビデオが発売されたのみでロードショー公開は無かったと記憶しています。
ドラローシュの絵の意味がわかってからはどうしても一度観てみたくて、海外のAmazonでDVDを購入しました。(現在は国内で邦訳版が売られています)
実際観てみると、結婚披露宴の場面での衣裳や杯、余興などが「へええ。こんな感じなんだあ( ..)φメモメモ」と結構興味深い。
舞台となる城内の様子は寒々しい感じです。
日常生活のあれこれをもっと長くじっくり観てみたかったな。
この映画は「ラブストーリー」にも分類されると思います。親同士が決めた政略結婚に従うだけの娘と息子が、次第に相手を理解し合い、愛して、本当の夫婦(というか恋人同士に見える)になっていく過程はとても微笑ましいものです。
しかし処刑というふたりの結末を知っている身としてはやはり切なく、ラストシーンではジェーンが可哀想で号泣でした。
ギルフォード・ダドリーの兄弟について
ギルフォードの兄弟姉妹のなかで最も有名なのは、エリザベス1世の寵臣レスター伯のロバートですね。
父の陰謀に加担して投獄された他の兄弟たちのその後も気になったので、少し調べてみました。(気になったのは私だけ??)
書籍によっては「兄」だったり「弟」だったりしているかもしれませんが、Wikipediaの生年を参考に並べました。
第2代ウォリック伯ジョン・ダドリー(1527年?-1554年10月21日)
死刑を宣告されましたが、恩赦。ロンドン塔から解放された直後に亡くなりました。
第3代ウォリック伯アンブローズ(1530年頃-1590年2月21日)
恩赦で釈放後、サン・カンタンの戦いでスペイン王フェリペ2世の側で戦いました。弟のロバートの華やかなキャリアとは対照的に、「ウォリック伯」として堅実に基盤を築いたようです。
※サン・カンタンの戦い(the Battle of St. Quentin、スペイン・ハプスブルク対フランスの戦い )
ヘンリー(1531年-1557年8月10日)
死刑宣告を受けましたが釈放され、その後サン・カンタンの戦いで亡くなりました。
初代レスター伯ロバート・ダドリー(1532年6月24日-1588年9月4日)

引用元:レスター伯ロバート・ダドリー
ロバートも死刑判決を受けましたが、1555年に赦免されました。
ロバートはエリザベス1世の愛人、寵臣として知られています。
彼には1550年に結婚した妻(Amy Robsart)がいて、エリザベスと結婚することはできなかったのですが、妻と別れてエリザベスと結婚するというような噂が流れた頃、妻が事故死します。
この事件には他殺説が流れ、 ふたりの結婚は難しくなりました。


引用元:ジェーン・グレイまたはAmy Robsartと言われる1535年頃の細密肖像画
その後ロバートは別の女性と再婚し、1588年に病死します。
戦時の指揮官としては無能だったようですが、エリザベスは彼を「お目めちゃん」と言って寵愛し、彼から来た最後の手紙を大切に保管していました。
- 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 桐生操(著) 中経出版
- 『イギリスの歴史』 指昭博(著) 河出書房新社
- 『怖い絵 泣く女篇』 中野京子(著) 角川文庫
- 『ダークヒストリー 図説イギリス王室史』 ブレンダ・ラルフ・ルイス(著) 樺山紘一(日本語版監修) 高尾菜つこ(訳) 原書房
コメント
コメント一覧 (12件)
Miyukey様
こんばんは。お久しぶりです。ブログはいつも外から拝読しています。
「怖い絵展」、大阪でご覧になったのですね。
「怖い絵展」の目玉のひとつでしたもんね。私も観に行きまして、やっぱり本物は違うと改めて思いました。
若い頃何の予備知識も無いままロンドンで観たのですが、あの迫力に圧倒されました。帰国後、あの絵の背景、観たかった映画のお話だと知って悔しくて、その後渡英する度リベンジ鑑賞しました( ;∀;)ある程度ちゃんと勉強してから行けば良かったと思いました。
今回も読んで下さって有難うございました。
ハンナさん、お久しぶりです。
ポール・ドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」は、大阪の「怖い絵展」で観ました。
その時の衝撃と感動と切ない気持ちを思い出しました。
悲しい運命のジェーン・グレイ。
信仰を捨てず、気丈に運命を受け入れた彼女の最期は美しいですね。
石山藤子 (id:genjienjoy)様
コメントを有難うございました。
本来なら恩赦で助かっていたのかもしれないのに、タイミングが悪いというか、反乱が起きなければ…と思います。
ほんとに周囲の都合に振り回された感じです。
今回も読んで下さって有難うございました。
まーたる (id:ma-taru)様
遅くなって申し訳ありません。いつも有難うございます。
「美しくも血の時代」、まーたる様らしい、美しく誌的な表現ですね。
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』、他にも処刑場面を描いた絵がありますが、ドラローシュのものが一番迫力があります。あの絵が史実に基づいたものであると知り、あれが「9日間女王」のことなのだとわかった時の衝撃。無垢な少女の殉教の場面、まさに私にとっても思い出の一枚です。
今回も読んで下さって有難うございました。
くろいぬ (id:suburikuroinu)様
読んで下さって有難うございます。
ジェーンの斬首、幸いにも処刑人の腕は良かったようです。
(映画のラストシーンなど、可哀想過ぎて本当に号泣します。)
いずれ一時期フランス王妃だったスコットランド女王メアリ・スチュアートの最期もやりたいですが、彼女の場合は処刑人の腕が悪く、これはこれでとても気の毒でした。
今回も有難うございました。
森下礼 (id:iirei)様
いつも有難うございます。
似たようなことは古代日本にもありましたよね。恐らく、世界中であったのだと思います。レディ・ジェーン・グレイのようにある程度遺書や手紙などの資料が残っていて、有名人で(短期間でも女王だった)、その時代の目撃者、同情した人たちが多くいれば、「ひどい話」だと記憶され、後世まで語り継がれるのでしょうね。
中国史も興味があるのですが、手が回らず上っ面の知識だけです。いつも教えてくださって有り難いです。
拷問や処刑法など見ていると、文化の違いはあっても、人間はここまで残虐になれるんだなあと改めて思います。
今回も有難うございました。
happy-ok3様
いつも有難うございます。
ご丁寧なコメント、感謝しております。
映画を観ても本を読んでも、その「結末」を知っているため、その度に悲しい気持ちになりますね。
メアリー女王やジェーンの信仰に対する気持ちは私などが想像する以上に強かったことだろうと思います。
英国史を描くドラローシュが、実際のジェーンの処刑状況について知らなかったわけはないと思いますので、happy-ok3様が仰るようにこの絵には多くの含みがあると思います。
まさに無垢な乙女の殉教ですね。
印象に残る、悲劇的な絵です。
今回も読んで下さって有難うございました。
なんか…切ないですね。
操り人形にされた上に、刑の重さも権力者の都合に左右される。
それでも、自分の死を前にして
凛としているジェーンが美しいです。
おはようございます(о´∀`о)
この時代はさまざまな思惑が絡み合い、美しくも血の時代という感じがします。
「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を初めて観たとき、それぞれの人物が醸し出す表情に思わず鳥肌が立ったのを覚えています。
自分に何が起こっているのかわからないといったように見えるジェーン・グレイ、絶望感に満ちた女性、労わるような優しさと悲しみを感じる司祭、斧を持つ男性に感じる緊張感。
服のシワの一つとっても素晴らしく、絵画の技術のすごさもさることながら、心をグッと掴まれる絵だと思います。
9日は慌ただしいです。
今更ながら、せめてジェーンの処刑人の腕が良かったことを願っています。
前編での私のコメントに関連しますが、ジェーンへの呵責ない仕打ちは、やはり古代中国の酷薄さに比することができますね。中島敦の短編『盈虚:えいきょ』(月の満ち欠け)に描かれた衛の皇太子であり、亡命生活を余儀なくされ、みごと帰国後王になった、カイガイ(漢字が難しくて変換できません)の末路。彼も含め、登場人物がそろいもそろって非情、酷薄なのです。
ある意味、王朝というもの、ヨーロッパ、中国もすべて込みで、そんなものなのかも知れないですね。古代日本の皇室も例外ではありません。
こんにちは。
ジェーンの処刑に、なんとも言えない気持ちになりました。
イギリスに限らず、昔昔から、どの国でも女官と王(殿様)の事はありましたね。
ジェーンは、最期まで信仰を貫いたのですね。すごいです。
この時代は、宗教と政治が絡み合っていたので、多くの問題は、一筋縄ではいかない部分が多かったでしょうね。
ポール・ドラローシュの、ジェーンの衣装には、多くの含みがあるように思います。
信仰を貫き、主の花嫁としての信を持つこと、ハンナ様が書かれたよう、潔白を意味する事も。
様々な人間関係、政治の意向など、避けられないものが、沢山ありますね。
庶民は、あまりないですが。(#^.^#)
ジェーンの処刑の絵も、多くのスケッチがなされ、完成度の高い絵は、時間をかけ気持ちがこもっていますね。
今日も詳しく、ありがとうございます。