フランソワ1世の宮廷で形成されたフォンテーヌブロー派を、歴史の流れとマニエリスムの背景から読み解きます。主要画家や代表作もあわせて紹介します。

フランスによるイタリア進出
1515年1月、フランス国王フランソワ1世即位
シャルル8世、ルイ12世から続く、フランスによるイタリアへの軍事侵攻。

引用元:シャルル8世

引用元:ルイ12世
1515年、国王の座に就いたルイ12世の娘婿 フランソワ1世も、その政策を引き継ぎます。

引用元:フランソワ1世
ルーヴル美術館François 1er (1494-1547), roi de France.
Wikipedia にこのような記述がありました。
1515年にフランソワ1世が即位する頃には、フランスにはルネサンスが到来しており、彼は熱心な芸術の庇護者となった。彼が即位した当時、フランスの王宮には数点の素晴らしい絵画が飾られているだけで、古代から現代に至るまで、彫刻は一つもなかった。(Google翻訳)
Wikipedia: Francis I of France
ちょっと誇張してる? それとも本当?
「フランスの王宮には数点の素晴らしい絵画が飾られているだけで、古代から現代に至るまで、彫刻は一つもなかった」って、もし本当なら、それは何故でしょう? 宗教とか、戦争などの社会的背景が原因なのか? そこはぜひ探ってみたいですねえ。
1516年、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招く
イタリアで不遇の時を過ごしていた、天才レオナルド・ダ・ヴィンチ。
フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチを招き、アンボワーズのクルー館(クロ・リュセ)に住まわせます。
老画家は『モナ・リザ』『洗礼者聖ヨハネ』など「名画」を携えてやってきました。
そして1519年に亡くなるまで、フランスで過ごします。

引用元:『モナ・リザ』
ルーヴル美術館Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa
フランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチのエピソードももちろん載ってます
ルーヴル美術館の超目玉・レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。イタリアの巨匠のこの絵が、なぜフランスにあるのでしょうか。
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
1525年2月24日、「パヴィアの戦い」
イタリアを巡り、フランソワ1世は神聖ローマ皇帝カール5世と争います。

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
アルテ・ピナコテークBildnis Kaiser Karls V. im Lehnstuhl, 1548
1525年2月24日、「パヴィアの戦い」でフランソワ1世自身が捕えられ、フランスに激震が走りました。
フランソワ1世の実母 ルイーズはフランス摂政として奮闘。
1526年、マドリッド条約(1522年)に基づき、スペインで捕虜生活を送っていたフランソワ1世と、フランソワの幼い王子たち(後のアンリ2世とその兄)の身柄が交換されます。
王子たちはスペインで、父の代わりにスペインで捕虜生活を送ります。
一方、捕虜生活から帰還したフランソワ1世。
イタリア遠征で、すっかりイタリアの文化・芸術に魅せられていました。
フォンテーヌブロー宮殿を装飾するため、イタリアから大勢のイタリア人芸術家を呼び寄せます。
フランスではイタリア芸術や建築への趣味はシャルル八世、ルイ一二世、フランソワ一世のもとでのイタリアへの軍事侵攻によって促進された。一五一五年にミラノで『最後の晩餐』を見た後、フランスへ来るようレオナルド・ダ・ヴィンチを ― そして短期間アンドレア・デル・サルトを ― 説得したのはフランソワ一世であった。一五二八年に幽閉から解放されて国に戻ると彼は、「新たなローマ」つまり新たなルネサンス君主制の文化的シンボルとして、フォンテーヌブローの古城を再建する。そこにはフィレンツェ出身のロッソ・フィオレンティーノ、ボローニャ出身フランチェスコ・プリマティッチョ、二〇年後の一五五二年にやって来たニコロ・デッラバーテによって古代世界が描き出された。
Alison Brown アリソン・ブラウン(著). 石黒 盛久・喜田 いくみ(訳). 2021-11-20. 『イタリア・ルネサンスの世界』. 論創社. pp.161-162.
1527年5月、ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)/ Sacco di Roma / Sack of Rome
教皇クレメンス7世は、ヴェネツィア共和国とともに、神聖ローマ皇帝カール5世をイタリア半島から追放するための同盟を組織します。

引用元:ローマ教皇クレメンス7世
クレメンス7世はメディチ家出身。カトリーヌ・ド・メディシスとは親戚
マドリードでの捕虜生活から解放されたフランソワ1世は、早速? クレメンス7世支持を表明。
1526年5月22日、フランスのコニャックの町で、同盟に署名しました。
そのコニャック同盟戦争(1526年~1530年)のさなか、1527年5月、ローマで大きな事件が起きます。
「サッコ・ディ・ローマ」 (Sacco di Roma) 。日本語で「ローマ略奪」「ローマ劫掠(ごうりゃく)」です。
神聖ローマ皇帝カール5世軍の傭兵たちは、満足の行く給料を払って貰えず、食料も不足していました。
彼らは、近隣の都市や町、村を襲って物資を奪い始め、侵攻したローマで暴徒化。
殺戮、強盗、強姦と非道の限りを尽くします。
教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、この事件で、美しかったローマは廃墟のようになってしまいました。
都市の略奪はすさまじかった。プロテスタントの傭兵隊長シャートリン・ブルテンバッハは後年回顧して書いている。「一五二七年五月六日、われわれは都市に襲いかかった。六〇〇〇人が殺され、全市が略奪され、すべての教会で見つけだされたものはみな奪取され、都市のいいところが焼かれ、残ったのはまれであった。すべての謄本、登記簿、書簡、それらの副本類は、破られ、破棄された」。死者は一万人にたっし、一週間にわたる略奪の被害は一〇〇〇万ドゥカーテンにのぼった。この出来事によって、ローマのルネサンス時代は終わったといわれる。
瀬原義生(著). 2013-12-10. 『皇帝カール五世とその時代』. 文理閣. p.183.
教皇は逃げ、神は沈黙したままです。
虐殺を目の当たりにしたローマ市民の絶望は、どれほどのものだったでしょうか。
これまで保たれていた調和は崩壊し、夢のように美しかった都は廃墟に。
ローマで活動していた芸術家たちも各地に散って行きました。
ローマ略奪についてはこちらでも出てきます
パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリアの肖像(アントニス・モル作)
この頃登場した美術について、『いちばん親切な西洋美術史』から引用します。
ルターによる『九十五カ条の論題』によって宗教改革が始まり、1527年には神聖ローマ皇帝軍がローマで暴虐(サッコ・ディ・ローマ)のかぎりを尽くし、イタリアは社会的混乱期に陥った。ローマ教皇庁を中心としていた古典主義は影をひそめ、しだいに各都市の宮廷を中心とした美術が生まれていく。
その反ルネサンス的な宮廷主導美術は、自然を模倣しつつ、そこに自然を凌駕する人工の美しさを追求。ルネサンスの頃に求められた正確な人体把握や空間表現の合理性、現実的な陰影や色彩の表現などから逸脱していた。不自然なまでに引き伸ばされた身体や、仮面のような無表情が特徴のこの様式は、「マニエリスム」と呼ばれる。
池上英洋 / 川口清香 / 荒井咲紀(著). 2016-7-25. 『いちばん親切な西洋美術史』. 新星出版社. p.106.
ルターの話はこちらに
.アン・オブ・クレーヴズの姉 ザクセン選帝侯妃ジビュレの肖像画
マニエリスム / Mannerism
イタリア語では、Manierismo。
イタリア語の、「様式」または「作法」を意味する「マニエラ (maniera) 」に由来しています。
マニエリスムの作品、と聞いて思い出すのが、以下の作品。

引用元:Giambologna raptodasabina CC-BY-SA-3.0 Ricardo André Frantz (User:Tetraktys)
捻りに捻った人体、という印象です。
『いちばん親切な西洋美術史』では、「多視点鑑賞を想定した螺旋状構造の作品」とあります。
360度、何処から見ても鑑賞にたえる彫刻。
ジャンボローニャの時代より少し前、ルネサンスの巨匠のひとり、ミケランジェロの作品も既におおいに捻っています。

引用元:Firenze.Palvecchio.500.Michelangelo2 User:JoJan, cropped by user:Sailko
次はエル・グレコの『ラオコーン』。 『いちばん親切な西洋美術史』には、「ミケランジェロの身体表現に影響を受けた作品」とあります。

引用元:Laocoön
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートLaocoön
エル・グレコは、芸術は自然を単に模倣するだけでなく、知性を刺激するものであるべきだと考えていた。彼は、細長くねじれた人物像、歪んだ空間、そして対照的な色彩を用いて、感情を鮮やかに表現した。(Google翻訳)
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートLaocoön
下は、マニエリスムの絵画を代表する、『長い首の聖母』。

引用元:『長い首の聖母』
ウフィツィ美術館Madonna and Child with Angels (Madonna with the long neck)
パルマ生まれのパルミジャニーノは、1524年の夏にローマに出てきました。
しかし、1527年5月6日、「ローマ略奪」に遭遇。 ローマを離れ、ボローニャに向かいます。
フランチェスコ・マッツォーラ、あるいは故郷パルマにちなんでパルミジャニーノとも呼ばれた彼は、幼い頃から才能を発揮した画家でした。当時パルマの教会で大規模なフレスコ画を描いていたコレッジョと直接交流しながら修業を積みました。パルマで最初の依頼を終えた後、ローマでミケランジェロやラファエロの作品を研究し、修業を終えました。知的で型破りな気質を持つ彼は、優雅で洗練された反古典主義的なスタイルを確立し、エミリア・マニエリスムの代表的な画家となりました。(Google翻訳)
ウフィツィ美術館Madonna and Child with Angels (Madonna with the long neck)
「エミリア・マニエリスム (Emilian Mannerism) 」という語が出てきましたが、「エミリア」はイタリア国内の地名で、芸術の中心地のひとつです。
「エミリアのルネサンス」について、参考に
メトロポリタン美術館の記事もご興味があれば
Sixteenth-Century Painting in Emilia-Romagna
マニエリスムの絵画には寓意(ぐうい)を含めた絵画も多く、下も「読み解き」の題材に取り上げられる、有名な作品。

引用元:Angelo Bronzino – Venus, Cupid, Folly and Time – National Gallery, London
ナショナル・ギャラリーAn Allegory with Venus and Cupid
この絵はおそらく、ブロンズィーノを宮廷画家として雇っていたフィレンツェの支配者、コジモ1世・デ・メディチからフランス国王フランソワ1世への贈り物として送られたものだろう。(Google翻訳)
ナショナル・ギャラリーAn Allegory with Venus and Cupid

引用元:コジモ・デ・メディチ
ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館Cosimo I de’ Medici in armour
ちょっと何を言いたいかわからない。 知識が無いと読み解けない、「寓意画」。
では、なぜ、そんな絵が人気だったのか。
マニエリスムは、トスカーナ大公やフランス国王など、宮廷というパトロンを得たことで、一六世紀後半には宮廷的な要素を強く出すようになります。市民のためのわかりやすい芸術とは違い、宮廷のための芸術は学者、識者好みのものとなりました。そして、インテリだけがわかる寓意が込められたり、官能的な美しさが求められたりしました。
視覚デザイン研究所. 2007-10-10. 第4刷発行. 『鑑賞のための 西洋美術史入門』. pp.60-61.
インテリだけがわかる芸術…。
精進して、わかるようになりたいですねえ。
フランスに招かれた芸術家たち
フランソワ1世は、イタリアから芸術家たちを招き、城の装飾にあたらせます。
アンドレア・デル・サルト / Andrea del Sarto, 1486 – 1530

引用元:アンドレア・デル・サルト
1518年5月以降(6月?)、アンドレア・デル・サルトは弟子とともに、フランソワ1世の招きを受けてフランスへ向かったようです。
『慈愛』は、画家がフランスでフランソワ1世のために制作した作品。
フォンテーヌブローでは、当時すでに高齢で1519年に亡くなったレオナルドの後を継いで制作活動を行った。ここで彼は、失われた作品の他に、1518年の署名と日付が入った「慈愛」を描いた。これは、ピラミッド型の構成と具象的な造形性を持つ当時のフィレンツェ文化の典型的な作品だが、チョークのような質感も持ち合わせており、同時代のロッソ・フィオレンティーノやポントルモがマニエリスム的な変形へと向かった危機の兆候を示している。(Google翻訳)
Wikipedia : Andrea del Sarto

引用元:『慈愛』
ルーヴル美術館La Charité
ロッソ・フィオレンティーノ / Rosso Fiorentino, 1494 – 1540

引用元:ロッソ・フィオレンティーノ
アンドレア・デル・サルトの弟子。
1524年頃、ロッソはフィレンツェを離れ、弟子を伴ってローマへ向かいました。
しかし、1527年5月に「ローマ略奪」に遭遇。 神聖ローマ皇帝軍の傭兵たちに捕えられ、釈放後はローマからペルージャに避難します。
1531年、フランソワ1世の招きでフランスに赴き、フォンテーヌブロー城の装飾・改築に関わりました。

引用元:ピエタ
ルーヴル美術館Pietà
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】

引用元:FontainebleauGalerieFrancoisI originally posted to Flickr as DSC01529 Neil Rickards CC-BY-2.0
ロッソ・フィオレンティーノによるフレスコ画(1536年頃)が見えますね。

引用元:Château de Fontainebleau – Galerie François Ier (4) Frédéric Neupont CC-BY-SA-4.0
ジュリオ・ロマーノ / Giulio Romano, 1492/1499? – 1546

引用元:ジュリオ・ロマーノ
ルネサンスの巨匠の一人 ラファエロ・サンツィオの弟子、ジュリオ・ロマーノ。
ジュリオ・ロマーノの名声はすぐにフランス国外にも広まり、フランソワ1世は彼をフランス宮廷のために招聘した。彼はフランスへ赴いたが、長くは滞在しなかった。最終的にその招聘に応じたのは、パレ・デュ・テの建設で彼の若い協力者の一人であったプリマティッチョであり、彼はロッソ・フィオーレと並んでフォンテーヌブロー派の主要人物の一人となった。しかし、彼はフランス国王のために、スキピオの勝利を描いた絹と金で織られた22枚のタペストリーのシリーズをデザインした。これらのタペストリーは、貴金属を回収するために1797年に焼却された。 [ 10 ](Google翻訳)
Wikipedia : Giulio Romano

引用元:『イサベル・デ・レケセンス・イ・エンリケス・デ・ベラスコ』
1518年にビッビエーナ枢機卿によって贈られた『イサベル・デ・レケセンス・イ・エンリケス・デ・ベラスコの肖像』。フランソワ1世のコレクション。
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
フランチェスコ・プリマティッチオ / Francesco Primaticcio, 1503/1504 – 1570

引用元:Francesco Primaticcio Files from Flickr’s ‘The Commons’
フランチェスコ・プリマティッチオはジュリオ・ロマーノの弟子です。
おそらく師のジュリオ・ロマーノの推薦により、1531年から1532年にかけてフランスを訪れ、フランソワ1世に仕えたようです。
ロッソが1540年に亡くなった後、フォンテーヌブローの美術監督に就任しました。

引用元:(1541-44) Décors du Primatice pour les appartements de la Duchesse d’Étampes à Fontainbleau Helvio ricina CC-BY-SA-4.0
プリマティッチオによる、フランソワ1世の寵姫 エタンプ公爵夫人の室内の装飾。
プリマティッチオは、フランス語では「ル・プリマティス」 (le Primatice) 。 『ヴァロワ朝』ではここで登場しています。
まだ先の一五四六年の話になるが、「クール・カレ」と呼ばれる棟を造成して、ルーヴルを無骨な城塞から華麗な宮殿に変える端緒をつけたのも、フランソワ一世である。派手男は建築も大好きであり、やはりイタリアから招いたル・プリマティス、セリーニ、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を、シャンポール城やフォンテーヌブロー宮など、やはり豪壮華麗な離宮の造作に働かせている。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史 2』. 講談社現代新書. pp.233-234.
ベンヴェヌート・チェッリーニ / Benvenuto Cellini, 1500 – 1571

引用元:ベンヴェヌート・チェッリーニ
オーストリア国立図書館Cellini, Benvenuto
1540年頃、ベンヴェヌート・チェッリーニを招いています。
この豪華な卓上塩容れ「サリエラ」は、フランソワ1世のために完成されました。

引用元:サリエラ Gaspar Torriero CC-BY-SA-2.0
美術史美術館Sogenannte Saliera
「ローマ略奪」事件の際、“教皇クレメンス7世を守って戦った”記述あり。チェッリー二の「天才、超有能な俺様」な自伝の上巻
ニコロ・デッラバーテ / Niccolò dell’Abbate, 1509/1512 – 1571

引用元:『水から救い出された幼いモーゼ』
ルーヴル美術館Moïse sauvé des eaux
フランチェスコ・プリマティッチオの弟子であるニコロ・デッラバーテは、モデナ出身。
デッラバーテは、1552年にフランスにやってきます。
フォンテーヌブロー宮殿の室内装飾に携わり、1571年にフォンテーヌブローで亡くなりました。
セバスティアーノ・セルリオ / Sebastiano Serlio, 1475 – 1554

マルティン・フォン・ワーグナー美術館Un portrait de Serlio par Passarotti pour Wurtzbourg
イタリア、ボローニャ生まれ。マニエリスムの建築家。
1514年にローマに出て、バルダッサーレ・ペルッツィに師事しました。
1527年の「ローマ略奪」から逃れ、 1540年までヴェネツィアに滞在しました。
フランソワ1世によって招聘され、フォンテーヌブロー宮殿の建設にも関わっています。
ピエトロ・アレティーノ / Pietro Aretino, 1492 – 1556

引用元:Portrait of Pietro Aretino (by Titian) – Pitti Palace
ピッティ宮殿Portrait of Pietro Aretino
ルネサンス期イタリアの作家、詩人。
「フランソワ1世は、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ラファエロなどのイタリアの巨匠の作品をフランスに持ち込む任務を負ったピエトロ・アレティーノなどの多くの代理人を雇った。」(Google翻訳)とWikipedia ( François Ier (roi de France) )にありました。
フランソワ1世はフォンテーヌブローに、ルネサンスの新天地、「新しいローマ」を造ろうとしていました。
美術品を購入し、芸術家たちに作品を依頼します。
フランソワ1世のコレクション、ラファエロの『美しき女庭師』も、フォンテーヌブロー宮のために購入されたものと言われています。

引用元:『美しき女庭師』
ルーヴル美術館La Vierge à l’Enfant avec le petit saint Jean Baptiste
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
イタリア人やフランス人の外交官を仲介者にし、フランソワ一世もまたイタリア芸術のパトロンであり収集家となった。彼はミケランジェロ、ブロンズィーノ、ティツィアーノの作品を手に入れただけでなく、彫刻や古代美術品の石膏模型をも獲得した。石膏模型は王宮の鋳物工場で青銅に変えられたのである。そのうえ彼は古典言語の研究のために王立学士院を設立し(監督責任者にエラスムスを呼び寄せようとしたが失敗)、王立図書館を拡充し、王室画家を任命した。
Alison Brown アリソン・ブラウン(著). 石黒 盛久・喜田 いくみ(訳). 2021-11-20. 『イタリア・ルネサンスの世界』. 論創社. p.162.
ルカ・ペンニ / Luca Penni, c.1500/1504 – 1556

引用元:Auguste et la Sibylle de Tibur
ルーヴル美術館Auguste et la Sibylle de Tibur
「ティーブルのシビュラが、アウグストゥス帝に対し、キリストの降誕があったその日に、皇帝よりも偉大な存在が生まれたと予言した」という伝説にもとづく作品。
ティーブルのシビュラについて
ルカ・ペンニは、一時期『狩りの女神ディアナ』の作者では、とされていました。
ペンニは、1530年頃にフランソワ1世に呼び寄せられたイタリアの画家のひとりで、ロッソ・フィオレンティーノと相前後してフランスに到着し、「フランソワ一世のギャラリー」の装飾に協力しました。(『フランス絵画史』 講談社学術文庫)

引用元:『狩りの女神ディアナ』
ルーヴル美術館Diane chasseresse
現在、『狩りの女神ディアナ』の画家は、シャルル・カルモワ (Charles Carmoy) とされています。
フォンテーヌブロー宮を舞台に活躍した画家たちを総称して「フォンテーヌブロー派」と呼ぶため、個人名が伝わっていない画家も多くいます。
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエの姿『狩りの女神ディアナ』(フォンテーヌブロー派)
イタリアだけでなく、フランドルからも画家を呼び集めたフランソワ1世。
イタリア、フランドル、フランスの芸術がフォンテーヌブローの地で混ざり合い、『いちばん親切な西洋美術史』の言葉をお借りすると、「宮廷人に好まれる華やかさを特徴とした美術様式と、その画家一派であるフォンテーヌブロー派」が誕生しました。
この頃、イタリアでは、「神話画に限らず、敬虔な宗教画以外はみんなダメ」な状況でした。
当時のイタリアでは対抗宗教改革のため、異教的絵画やエロチックな題材は御法度でしたが、フランスでは大歓迎。エロチックなテーマをフランドル風の写実的な堅い表現で描く、ちょっと不思議なこの時期独特の絵画も生まれます。
視覚デザイン研究所. 2007-10-10. 第4刷発行. 『鑑賞のための 西洋美術史入門』. p.61.
フォンテーヌブロー派は、時期により「一次」「二次」に分けることができます。
イタリアからやってきた芸術家たちが活躍した「第一次フォンテーヌブロー派」、フランス人芸術家たちが中心となった「第二次フォンテーヌブロー派」です。
後者になるとフランス出身の画家たちが中心となり、クーザン(父)などが現れる。これを境に、美術の中心はイタリアからフランスへと変わり、新古典主義、ロマン主義、印象派と続いていく。
池上英洋 / 川口清香 / 荒井咲紀(著). 2016-7-25. 『いちばん親切な西洋美術史』. 新星出版社. p.111.
フランス人芸術家たちが中心となる
Eva prima Pandora / 『エヴァ・プリマ・パンドラ』

引用元:『エヴァ・プリマ・パンドラ』
ルーヴル美術館Eva prima Pandora
Vénus à sa toilette / 『化粧するヴィーナス』

引用元:『化粧するヴィーナス』 pixelsniper CC-BY-2.0 Flickr images reviewed by FlickreviewR 2
ルーヴル美術館Vénus à sa toilette
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
1570年代~
16世紀終わり、アンリ4世の治世の頃、「第二次」フォンテーヌブロー派が生まれます。

引用元:アンリ4世
寵姫ガブリエル・デストレ亡き後のアンリ4世の恋
1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機
Gabrielle d’Estrées et une de ses soeurs / 『ガブリエル・デストレとその姉妹』

ルーヴル美術館Gabrielle d’Estrées et une de ses soeurs
A Lady in Her Bath / 『湯浴みする女性』

引用元:『湯浴みする女性』
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートA Lady in Her Bath
フランソワ・クルーエは、ネーデルラント出身の画家、父ジャンと共にフランス宮廷で活躍しました。
モデルについては、国王アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ説もあります。
水浴びをする女性の顔の仮面のような左右対称性から、正確な人物特定は困難である。学者たちは、彼女の貴族的な特徴から、彼女が複数の王室愛妾の一人であると示唆している。ヴィーナス像のような裸婦像は、特定の人物ではなく、理想的な美を表現している可能性もある。滑らかに描かれた裸婦像と、果物、衣服、宝飾品の精緻な表面描写との対比は、16世紀フランス宮廷美術の特徴であるフランドルとイタリアのモチーフの融合を示している。(Google翻訳)
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートA Lady in Her Bath
フォンテーヌブロー派に、ヴィーナスより狩りの女神であるディアナが人気だったのは、このディアーヌ・ド・ポワチエの存在も大きかったと言われています。
愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエの姿『狩りの女神ディアナ』(フォンテーヌブロー派)
Sabina Poppaea / 『ポッパエア・サビナ』

引用元:ポッパエア・サビナ
ジュネーヴ美術・歴史博物館Sabina Poppaea
フォンテーヌブロー美術館は、皇后ポッパエアを想像で描いた肖像画「サビーナ・ポッパエア」を所蔵しており、これはフォンテーヌブロー派の傑作の一つである。ネロ帝の二番目の妻を描いたこの像は、おそらくローマ皇帝の妻たちを描いた連作、あるいは「力強い女性たち」を描いた作品群の一部であったと考えられる。
フランス国王アンリ2世の有名な愛妾、ディアーヌ・ド・ポワティエは、宮廷の人物の肖像画で有名なフランス人画家フランソワ・クルーエのサークルに所属していたこの画家のモデルになったと言われている。ただし、この元高級娼婦の特徴が、現在は失われているフランソワ1世が所有していたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に基づいている可能性もある。水浴びをする女性の顔の仮面のような左右対称性から、正確な人物特定は困難である。学者たちは、彼女の貴族的な特徴から、彼女が複数の王室愛妾の一人であると示唆している。ヴィーナス像のような裸婦像は、特定の人物ではなく、理想的な美を表現している可能性もある。滑らかに描かれた裸婦像と、果物、衣服、宝飾品の精緻な表面描写との対比は、16世紀フランス宮廷美術の特徴であるフランドルとイタリアのモチーフの融合を示している。(Google翻訳)
ジュネーヴ美術・歴史博物館Sabina Poppaea

Hyante et Climène à leur toilette (Ronsard, La Franciade, troisième livre). / 『イアントとクリメーヌの化粧』

引用元:Hyanthe and Clymene at their Toilette
ルーヴル美術館Hyante et Climène à leur toilette (Ronsard, La Franciade, troisième livre).
- 池上英洋 / 川口清香 / 荒井咲紀(著). 2016-7-25. 『いちばん親切な西洋美術史』. 新星出版社.
- 佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史 2』. 講談社現代新書.
- Alison Brown アリソン・ブラウン(著). 石黒 盛久・喜田 いくみ(訳). 2021-11-20. 『イタリア・ルネサンスの世界』. 論創社.
- 視覚デザイン研究所. 2007-10-10. 第4刷発行. 『鑑賞のための 西洋美術史入門』.







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