狂女王フアナの孫娘『デンマークのクリスティーナ』

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イングランドで活躍した画家ハンス・ホルバインの『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』。「狂女王」フアナの孫娘です。

『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
目次

『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』

ナショナル・ギャラリーChristina of Denmark, Duchess of Milan

英国で活躍した画家・ハンス・ホルバイン(子)による、「デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃」の肖像画です。

クリスティナ(クリスティーヌ・ド・ダヌマルク Christine de Danemark, 1521年11月 – 1590年8月10日)

クリスティーナ(デンマーク語名はクリスティナ)は、デンマーク王クリスチャン2世と イサベル・デ・アウストリアの末子として、1521年11月にデンマークに生まれました。

デンマーク王クリスチャン2世(1481年7月1日 - 1559年1月25日) 1515年 ミケル・シトウ コペンハーゲン国立美術館蔵
デンマーク王クリスチャン2世(1481年7月1日 – 1559年1月25日) 1515年 ミケル・シトウ コペンハーゲン国立美術館蔵

引用元:クリスティアン2世

コペンハーゲン国立美術館Portræt af Christian II (1481-1559)

イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1510年 - 1515年頃 Pieter van Coninxlooの工房に帰属 ロイヤル・コレクション蔵
イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1510年 – 1515年頃 Pieter van Coninxlooの工房に帰属 ロイヤル・コレクション蔵

引用元:Isabella of Austria (1501-1526)

ロイヤル・コレクションIsabella of Austria (1501-1526) c.1510-15

1523年、父のクリスチャン2世が王位を追われ、一家でフランドルへ亡命。 困窮の中、大伯母であるマルグリット・ドートリッシュに引き取られます。

1533年、クリスティーナは、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しました。

しかし夫とは2年後に死別し、帰国します。

ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(1495年 - 1535年) ティツィアーノの工房
ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(1495年 – 1535年) ティツィアーノの工房

引用元:ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ Sailko CC-BY-3.0

1538年、ブリュッセルの宮廷に居たクリスティーナを、イングランドの宮廷画家であるハンス・ホルバインが訪ねてきます。

その前年に 3番目の妃 ジェーン・シーモアと死別した イングランド王ヘンリー8世が、「4番目のお妃」となる女性を探しており、王に見せる肖像画(お見合い写真のようなもの)を描くためでした。

ハンス・ホルバイン(子)自画像 1542年 – 1543年頃 ウフィツィ美術館蔵
ハンス・ホルバイン(子)自画像 1542年 – 1543年頃 ウフィツィ美術館蔵

引用元:ハンス・ホルバイン(子)自画像

イングランド王ヘンリー8世(1491年 - 1547年) 1540年 ハンス・ホルバイン(子) ローマ、国立絵画館蔵
イングランド王ヘンリー8世(1491年 – 1547年) 1540年 ハンス・ホルバイン(子) ローマ、国立絵画館蔵

引用元:ヘンリー8世

国立絵画館Ritratto di Enrico VIII

3月12日、彼女は3時間だけホルバインのモデルになることに同意しました。

絵の中の彼女が黒い衣裳なのは、これが喪服だから。

その場で描かれた素描は、イギリス公使によって「まさに完璧」と判断された。ホルバインはロンドンに戻ってから油彩の肖像画を仕上げたに違いない。

エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.

カンペキ (゚д゚)!

正面向きのポーズ(ヘンリーの花嫁候補たちを描いたホルバインの他の肖像画にも共通の特徴)は、王の指示で選ばれたとする指摘がある。他の向きではモデルの欠点が隠されてしまう恐れがあると、王は懸念したのかもしれない。

エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.

ヘンリー8世の4番目のお妃となったアン・クレーヴズの肖像画も、正面から書かれています。

『アンナ・フォン・クレーフェ(アン・オブ・クレーヴズ)の肖像』( Portrait d’Anne de Clèves, reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII ) 1539年頃 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵
『アンナ・フォン・クレーフェ(アン・オブ・クレーヴズ)の肖像』 1539年頃 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵

引用元:アン・オブ・クレーヴズ

ルーヴル美術館Portrait d’Anne de Clèves (1515-1557), reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII

美人に描き過ぎたのか? アン・オブ・クレーヴズの肖像

実物より美人?『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』(ハンス・ホルバイン(子)作)

とてもとても魅力的なクリスティーナの肖像ですが、超美人だった、というわけでもないようです。

非常な美人だったという話はないものの、クリスティーナは手の優雅さを大いに賛美されていた。そこで、この絵の中の手の部分で、ホルバインは肌の繊細な美しさを際立たせるために、リネンやビロード、毛皮、皮、金、宝石の質感の違いを描き分けている。

エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.

手の美しさも美人の条件なんですね。でもモデルの人柄が滲み出るような、いたずらっぽいクリスティーナの微笑みにとても惹かれます。

ホルバインとクリスティーナの話も載っています

ヘンリー8世の最初の妻 キャサリン・オブ・アラゴン

キャサリン・オブ・アラゴン( Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日) 1525年頃 Lucas Horenbout ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日 – 1536年1月7日) 1525年頃 Lucas Horenbout ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン

ナショナル・ポートレート・ギャラリーKatherine of Aragon

ヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは、クリスティーナにとって母方の大叔母に当たります。

ヘンリー8世はキャサリンの侍女だったアン・ブーリンに夢中になり、キャサリンと離婚しようとします。

神聖ローマ皇帝カール5世は叔母の離婚に反対し、教皇クレメンス7世に圧力をかけました。

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日 – 1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

教皇クレメンス7世(1478年-1534年) 1526年頃 セバスティアーノ・デル・ピオンボ カポディモンテ美術館蔵
教皇クレメンス7世(1478年 – 1534年) 1526年頃 セバスティアーノ・デル・ピオンボ カポディモンテ美術館蔵

引用元:教皇クレメンス7世

しかし、ヘンリー8世は国の宗教を変えてまでキャサリンを離婚。キャサリンは娘メアリー(後の女王メアリー1世)を残して他界します。

2番目の王妃となったアン・ブーリンは女児エリザベスをもうけたのみで王の跡継ぎを産むことができず、王の寵愛は別の女性に移ってしまいました。このエリザベスが後のエリザベス1世です。

ところが、世継ぎとなる男児エドワードを産んだ3番目の王妃ジェーン・シーモアも亡くなってしまい、ヘンリー8世は新しい王妃を探していたのです。

クリスティーナは、アン・ブーリンが斬首されたことを聞いて知っていました。

イングランド王のお妃候補に、と話があった途端、急いで結婚してしまう女性もいたそうです。

クリスティーナは「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」(ひとつは王の好きにしていいけれど、一個しかないから斬られたら困る)とやんわりと断ったのでした。

クリスティーナの再婚

1541年、クリスティーヌは バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)と再婚します。

バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)(1517年8月23日-1545年6月12日) 美術史美術館蔵
バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)(1517年8月23日 – 1545年6月12日) 美術史美術館蔵

引用元:バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)

フランソワは、ヘンリーの 4番目の王妃となったアンナ・フォン・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ)のかつての婚約者でした。

ヘンリー8世妃アン・オブ・クレーヴズ(アンナ・フォン・クレーフェ)が着る1530年代のハイ・ファッション

クリスティーナとの間には 1男2女が生まれましたが、フランソワは 1545年に亡くなります。

幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーナは長く摂政を務めました。

フランソワ・クルーエによるクリスティーナの肖像画 1558年
デンマークのクリスティーナ 1558年 フランソワ・クルーエ

引用元:デンマークのクリスティーナ

クロードの夫・ロレーヌ公シャルル3世 (1543年-1608年) 16世紀 フランソワ・クルーエの工房
ロレーヌ公シャルル3世 (1543年 – 1608年) 16世紀 フランソワ・クルーエの工房

引用元:ロレーヌ公シャルル3世

ちなみに、息子シャルルの名はクリスティーナの伯父であるカール5世にちなんで付けられたそうです(「シャルル」はカールのフランス語読み)。

シャルルの妃はフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘、クロード・ド・ヴァロワ。

クロード・ド・ヴァロワ(カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、ロレーヌ公妃となった。修道院長カトリーヌの母) 1522年と1572年の間 フランソワ・クルーエ アルトピナコテーク蔵
カトリーヌ・ド・メディシスの娘、クロード・ド・ヴァロワ 1522年 – 1572年 フランソワ・クルーエ アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:クロード・ド・ヴァロワ

カトリーヌ・ド・メディシスとアイスクリームとジャム

このクリスティーナやシャルルの子孫が、ロレーヌ公(ロートリンゲン公)フランツ、その娘マリー・アントワネットです。

1590年8月10日、クリスティーナはトルトーナで亡くなりました。

英国王への輿入れを断ったデンマーク王女クリスティーナ。

と、そこだけ聞くと「ふーん」だったのですが、彼女が狂女王フアナの孫娘で、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの姪の娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の姪、と知るとまた少し「深く」見えてくるような気がしました。

この時代、有名人が「ほとんど親戚同士」で、名前も似ている(同じ)なので混乱する × 混乱する。

しかも困窮したクリスティーナたちを迎え入れたのは、マルグリット・ドートリッシュ。

まあ、それは親戚だしね、と思うのですが、マルグリットはカールやイサベル(・デ・アウストリア)のために私設学校をつくり、そこには後にヘンリー8世の王妃となるアン・ブーリンも留学していた…。

となるとミーハーな私としては興味深過ぎます。

それでは、狂女王フアナの家族、子供たちについても見て行きたいと思います。

クリスティーナの祖母 フアナ

「狂女フアナ」( Juana la Loca, 1479年11月6日 – 1555年4月12日)

「狂女王」フアナ( Königin Juana "Die Wahnsinnige" (1479-1555), 1479年11月6日 - 1555年4月12日) 1495年 - 1496年以降 美術史美術館蔵
「狂女王」フアナ(1479年11月6日 – 1555年4月12日) 1495年 – 1496年以降 美術史美術館蔵

引用元:カスティーリャ女王フアナ

美術史美術館Königin Juana “Die Wahnsinnige” (1479-1555)

フアナは1479年11月6日、「カトリック両王」と呼ばれた、カスティーリャ女王イサベル1世と、その夫のアラゴン王フェルナンド2世の娘として生まれました。

おとなしく、読書好きな子どもでした。

19世紀の歴史画に描かれたカスティーリャ「狂女王」フアナ

フアナの兄と妹

フアナは5人きょうだいの3番目で、兄にフアン、妹にカタリナ(英語名はキャサリン・オブ・アラゴン)がいます。

アストゥリアス公フアン  15世紀
アストゥリアス公フアン(1478年6月28日 – 1497年10月4日)  15世紀

引用元:アストゥリアス公フアン

キャサリン・オブ・アラゴン( Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日) 1525年頃 Lucas Horenbout ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
カタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)(1487年12月16日 – 1536年1月7日) 1525年頃 Lucas Horenbout ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン

フアナの夫とその妹

1496年、フアナは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男である ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公)と結婚します。

ブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公、Philipp "der Schöne" (1478-1506), 1478年7月22日 - 1506年9月25日) 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵
ブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公、1478年7月22日 – 1506年9月25日) 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵

引用元:フィリップ美公

美術史美術館蔵Philipp “der Schöne” (1478-1506)

兄のフアンは フィリップ美公の妹・マルグリット(マルガレーテ)と翌年の1497年に結婚するという、スペイン王家とハプスブルク家の「二重結婚」でした。

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日 – 1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

結婚当初はフアナを情熱的に愛してくれたフィリップでしたが、元々女性関係が派手だったこともあり、次第に他の女性に目を移していきます。

激しい嫉妬と猜疑心に、フアナの精神は蝕まれていきました。

狂気の芽は既にイザベル女王の母親に見られたのですが、フアナにもその兆しが表れたのです。

家族の死

1497年、スペインの王位継承者だったフアンが亡くなります。

このときマルグリットは妊娠中でしたが、後に死産。

マルグリットは、実の娘のように可愛がってくれたイザベル女王の元にしばらく留まった後、1500年に帰国しました。

1504年にはフアナの母イザベル女王が癌で崩御。

そして、最愛の夫であるフィリップが1506年に急死します。

フアナはついに正気を失いました。

ふたりの間には6人の子供がいましたが、フアナに子供の養育は出来ない状態に。

そのため、レオノール、カルロス、イサベル、マリアの4人は義妹(かつ元兄嫁)だったマルグリットが。

次男フェルナンドと末妹カタリナは、フアナの父フェルナンド2世が育てることになったのです。

マルグリットは愛情込めて幼い甥と姪たちを養育、彼らのために私設学校を開きました。

この私設学校には、後にヘンリー8世妃となるアン・ブーリンも留学します。

アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学

アン・ブーリンはレオナルド・ダ・ヴィンチの姿を見掛けたか?

ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ

フアナの子どもたち

レオノール(1498年11月15日 – 1558年2月25日)

レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)( Königin Eleonore von Österreich (1498-1558), 1498年11月15日 - 1558年2月25日) 1532年 - 1533年 ヨース・ファン・クレーフェ 美術史美術館蔵
レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ) 1532年 – 1533年 ヨース・ファン・クレーフェ 美術史美術館蔵

引用元:レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)

美術史美術館Königin Eleonore von Österreich (1498-1558)

スペイン語名はレオノール・デ・アウストリア( Leonor de Austria )、フランス語名はエレオノール・ドートリッシュ( Éléonore d’Autriche )またはエレオノール・ド・アブスブール( Éléonore de Habsbourg )。

初めはポルトガル王マヌエル1世妃となりましたが、死別。

後にフランス王フランソワ1世妃となり、フランソワ1世とカール5世の橋渡し役を務めました。

フランス国王フランソワ1世( François 1er (1494-1547), roi de France., 1494年 - 1547年) 1525年 - 1550年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランス国王フランソワ1世(1494年 – 1547年) 1525年 – 1550年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

ルーヴル美術館François 1er (1494-1547), roi de France.

デンマークのクリスティーナ、エレオノールも登場

フェリペ2世の妃たち エリザベートとアナ

カルロス(1500年2月24日 – 1558年9月21日)

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 – 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 – 1556年)。

スペイン国王としてはカルロス1世( Carlos I )。

スペイン語名ではカルロス、ドイツ語名ではカール、フランス語名ではシャルルです。

妻は、いとこのポルトガル王女、イサベル。

イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン( La emperatriz Isabel de Portugal, 1503年10月23日 - 1539年5月1日) 1548年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ プラド美術館蔵
イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン(1503年 – 1539年) 1548年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ プラド美術館蔵

引用元:イサベル・デ・ポルトゥガル

プラド美術館蔵La emperatriz Isabel de Portugal

イサベル(1501年5月18日 – 1525年1月18日)

イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1510年 - 1515年頃 Pieter van Coninxlooの工房に帰属 ロイヤル・コレクション蔵
イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1510年 – 1515年頃 Pieter van Coninxlooの工房に帰属 ロイヤル・コレクション蔵

引用元:Isabella of Austria (1501-1526)

スペイン語名はイサベル・デ・アウストリア( Isabel de Austria )、デンマーク語ではイサベラ・ア・ブアグン( Isabella af Burgund )、エリサベト・ア・ウストリ( Elisabet af Østrig )。

デンマーク王クリスチャン2世の王妃であり、クリスティーナの生母。

デンマークを追われ、叔母のマルグリット・ドートリッシュの元へ身を寄せます。

フェルナンド(1503年3月10日 – 1564年7月25日)

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世( Kaiser Ferdinand I. (1503-1564), Bildnis in ganzer Figur, 1503年3月10日 - 1564年7月25日) 16世紀半ば Johann Bocksberger d. Ä. 美術史美術館蔵
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世 16世紀半ば Johann Bocksberger d. Ä. 美術史美術館蔵

引用元:神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世

美術史美術館Kaiser Ferdinand I. (1503-1564), Bildnis in ganzer Figur

神聖ローマ帝国のローマ皇帝フェルディナント1世(在位:1556年 – 1564年)。

オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王。

ドイツ語名はフェルディナント( Ferdinand )、スペイン語名はフェルナンド( Fernando )。

同名の祖父・アラゴン王フェルナンド2世からとても可愛がられました。

アラゴン王フェルナンド2世( König Ferdinand II. (1452-1516) von Aragon, 1452年3月10日 - 1516年6月23日) 15世紀末 - 16世紀初頭 ミケル・シトウ(?) 美術史美術館蔵
アラゴン王フェルナンド2世(1452年 – 1516年) 15世紀末 – 16世紀初頭 ミケル・シトウ(?) 美術史美術館蔵

引用元: アラゴン王フェルナンド2世

美術史美術館König Ferdinand II. (1452-1516) von Aragon

カスティーリャ女王イサベル1世、マルグリット・ドートリッシュに仕えた画家シトウ

ミケル・シトウによる肖像画

マリア(1505年9月17日 – 1558年10月17日)

マリア・フォン・エスターライヒ( Mary (1505–1558), Queen of Hungary, 1505年9月17日 - 1558年10月17日) 16世紀前半 Jan Cornelisz Vermeyenにちなむ メトロポリタン美術館蔵
マリア・フォン・エスターライヒ 16世紀前半 Jan Cornelisz Vermeyenにちなむ メトロポリタン美術館蔵

引用元:マリア・フォン・エスターライヒ

メトロポリタン美術館Mary (1505–1558), Queen of Hungary

ドイツ語名はマリア・フォン・エスターライヒ( Maria von Österreich )。

ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世の王妃。ラヨシュの死後は再婚しませんでした。

兄カルロス(神聖ローマ皇帝カール5世)の命を受け、叔母マルグリットの後任としてネーデルラント17州の総督を務めました。

ハンガリー王ラヨシュ2世( König Ludwig II. (1506-1526) von Ungarn, 1506年7月1日 - 1526年8月29日) 1522年頃 Hans Krell 美術史美術館蔵
ハンガリー王ラヨシュ2世(1506年 – 1526年) 1522年頃 Hans Krell 美術史美術館蔵

引用元:ハンガリー王ラヨシュ2世

美術史美術館König Ludwig II. (1506-1526) von Ungarn

トウガラシ、ハンガリーにやってくる。

カタリナ(1507年1月14日 – 1578年2月12日)

カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン)( La reina Catalina de Austria, 1507年1月14日 - 1578年2月12日) 1552年 - 1553年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵
カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン) 1552年 – 1553年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵

引用元:カタリナ

プラド美術館La reina Catalina de Austria

スペイン語名はカタリナ・デ・アウストリア( Catalina de Austria )、ドイツ語名はカタリーナ・フォン・シュパーニエン( Katharina von Spanien )。

いとこであるポルトガル王ジョアン3世の王妃。

ジョアン3世は、カール5世の妻イサベルの兄でもあります。

19世紀の歴史画には、幽閉中の母フアナと過ごした少女時代のカタリナも描かれています。

『幽閉中のフアナ』 1906年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
『幽閉中のフアナ』 1906年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵

引用元:『幽閉中のフアナ』

プラド美術館La reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la infanta Catalina

アン・ブーリンの章でキャサリン・オブ・アラゴンについても読むことができます

主な参考文献
  • エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書.
  • 有地京子(著). 『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』. 角川マガジンズ.
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