ルーヴル美術館の超目玉・レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。いつ行っても人だかりの印象です。
イタリアの巨匠のこの絵が、なぜフランスのルーヴル美術館にあるのでしょうか。
そして同じ時期に、後にヘンリー8世妃となり斬首されることになるアン・ブーリンもその近くで暮らしていました。
アンはこの天才芸術家と会ったことがあるのでしょうか。

なぜルーヴル美術館にあるのか?レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』
『モナ・リザ』( Mona Lisa ) 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ

引用元:『モナ・リザ』
パリのルーヴル美術館にある『モナ・リザ』。
レオナルド・ダ・ヴィンチが死ぬまで手放すことなく、筆を入れ続けていたそうです。
何故、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が、フランスにあるのでしょうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランス王に招かれる
1516年、イタリアの偉大なる芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)はフランス王フランソワ1世に招かれ、フランスにやってきました。

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチ 自画像

引用元:フランソワ1世
フランソワ1世はイタリア侵攻の際、現地の芸術に触れ、それ以来イタリア芸術の大ファンになりました。
レオナルドはフランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に住み、1519年に死去します。

引用元:アンボワーズ城 Quality Images by Martin Falbisoner CC-BY-SA-3.0

引用元:クルー城 Nadègevillain CC-BY-SA-3.0
この『モナ・リザ』は弟子のサライが相続したということですが、後にフランソワ1世によって買い上げられます。
その後『モナ・リザ』はフォンテーヌブロー宮殿に飾られ、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移しました。
革命後はルーブル美術館へ収められましたが、普仏戦争や世界大戦などの戦禍を避けるため各地を転々とし、一時ナポレオンの寝室に掛けられたこともありました。
生前からレオナルドの名声は高く、「フランソワ1世の腕の中で息を引き取った」という伝承が残っているほど、フランソワ1世から賞賛、厚遇されました。(実際には違います)
下は、その伝承を元にした巨匠アングルによる絵画です。

引用元:『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』
アン・ブーリン、フランスへ行く
当時のヨーロッパで最も文化水準が高かった、 ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷。
マルグリットは、手元に引き取った甥(後の神聖ローマ皇帝カール5世)や姪(後のフランソワ1世の二度目の妻レオノール他)のために私設学校を開いていました。

引用元:マルグリット・ドートリッシュ
外交官で勉学好きだったトマス・ブーリンは、自分の娘のアンを預かってもらえないかマルグリット(マルガレーテ)に打診し、受け入れられます。
1513年6月半ば、アンはマルグリットの宮廷があるブルゴーニュに送り出されます。

引用元:アン・ブーリン
1513年の、ブーリン宛マルガレーテ総督の手紙が残っている。アンが無事到着したこと、賢い娘さんを預かることになって嬉しい、といった内容だ。このときアンは13歳だったのだろうか、それともまだたった6歳だったのだろうか?手紙には、年齢のわりに立ち居振る舞いが立派、との褒め言葉もあるが、そこから類推できることは何もない。13歳であっても6歳であっても当てはまるからだ。
(『残酷な王と悲しみの王妃』 中野京子(著) 集英社文庫 P204)
後にイングランド王ヘンリー8世の妃となり、エリザベス1世の母となるアン・ブーリンですが、生年は諸説有り、はっきりしません。
1500年生まれとすれば、この時アンは13歳くらいです。
この留学はイングランドとスペインの関係悪化により、短期間で終わりました。
1514年、ヘンリー8世の妹(メアリー・テューダー)がフランスへ輿入れするため、それについてアンもフランスへ渡ることになったのです。
メアリー・テューダー(フランス名マリー・ダングルテール)とルイ12世の結婚は、ルイ12世の死で3ヵ月で終わりを告げました。
メアリーはイングランドに帰国しましたが、アンは、ルイ12世の娘で、次のフランス国王フランソワ1世妃であるクロードの宮廷に留まりました。
未亡人となったメアリー・テューダーはかつての恋人と再婚します。
ふたりの孫がイングランドの9日間女王となったレディ・ジェーン・グレイです。
王妃クロードの宮廷

引用元:王妃クロード

王は即位まもなくミラノへ遠征したが、進んだイタリア文化に完全にノックアウトされ、絵画や彫刻、書籍や贅沢品を収集(半ば収奪(しゅうだつ))するとともに、おおぜいの芸術家を国へ招いて庇護した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年をフランスで送ったのはそのためで、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』があるのもまたそのおかげである(アンが老レオナルドに会う機会はあったのだろうか?)
(『残酷な王と悲しみの王妃』 P206)
1516年、フランソワの招待に応じてフランスに来たイタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が老いの身を落ち着けたのは、クロード王妃の住むアンボワーズ城のすぐそばのクロー村であったから、アンもダ・ヴィンチの姿を目にしたにちがいない。
(『図説 エリザベス一世』 石井美樹子(著) 河出書房新社 P18)
レオナルドだけでなく、彫刻や「黄金の塩容れ」で有名なベンヴェヌート・チェッリーニ(チェリーニとも表記)も、フランソワ1世に招かれ、1540年から5年間パリに滞在しています。
この、ルネサンスの花が大きく華麗に開いた時代の宮廷に、アン・ブーリンはいたのです。

王妃クロードの通訳として仕え、流暢なフランス語を話し、同時代の宮廷人からも「言われなければ、外国人だとわからない」とまで言われました。
リエの司教ランスロット・ド・カールは、「その立ち居振る舞いや作法からは、決してイングランドの女性だとは思われないだろう。フランスで生まれ育ったかのようだ」と書いている。
(『史上最悪の破局を迎えた13の恋物語』 ジェニファー・ライト(著) 二木かおる(訳) 原書房 P91)
イングランドに帰国した彼女は、その時代の美女の定義からは外れていたのかもしれませんが、粋で、洗練されたフランス仕込みの会話や物腰が人々の目を惹きました。
ダンスやリュートの演奏も上手だったといわれています。
アンはブルゴーニュにおいて、女性ながらトップの座に君臨し、優れた政治手腕をふるうマルガレーテの姿を間近に見てきた。さらにフランソワ1世の宮廷では、陰で王や権力者に強い影響を与える女性たちの力を知った。その力の効果的使い方、その力の拠ってきたる男殺しのテクニックを学んだ。
(『残酷な王と悲しみの王妃』 P208)
今のところ「アン・ブーリンがレオナルド・ダ・ヴィンチに会った」という話は無いようですが、もしかしたら遠くから見掛けたことくらいはあったのかもしれませんね。
姉妹メアリー・ブーリン
ちなみに、アン・ブーリンには年齢の近い姉妹・メアリーがいました。

引用元:メアリー・ブーリン
彼女もフランスの宮廷にいたのですが、フランソワ1世から「下品な娼婦」(『ダーク・ヒストリー 図説イギリス王室史』 原書房)と見なされていたようです。
アンより一足先に帰国したメアリーはヘンリー8世の愛人となり、子どもまで産みましたが、ヘンリーには彼女と結婚する気など皆無でした。
大勢の中の愛人の一人。飽きられれば捨てられて、それで終わりです。
アンはメアリーの二の舞を演じる気はありませんでした。
その後ヘンリー8世の目に留まり、求愛され、王妃となったアンはエリザベス1世の生母となりました。
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