アン・ブーリンはレオナルド・ダ・ヴィンチの姿を見掛けたか?

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ルーヴル美術館の超目玉・レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。イタリアの巨匠のこの絵が、なぜフランスにあるのでしょうか。

『モナ・リザ』  1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
『モナ・リザ』 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
目次

レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』はなぜフランスにあるのか?

『モナ・リザ』( Mona Lisa ) 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

『モナ・リザ』( Mona Lisa ) 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
『モナ・リザ』 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

引用元:『モナ・リザ』

ルーヴル美術館:Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa

ルーヴル美術館にある『モナ・リザ』。レオナルド・ダ・ヴィンチが 1519年に亡くなるまで手元に置き、筆を入れ続けていたそうです。

同じ頃、後にヘンリー8世妃となり斬首されることになるアン・ブーリンが、レオナルドの住まいの近くで暮らしていました。

アン・ブーリン 16世紀末 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
アン・ブーリン 16世紀末 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:アン・ブーリン

ナショナル・ポートレート・ギャラリー:Anne Boleyn

アンはこの天才芸術家と会ったことがあるのでしょうか。

そもそも何故、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が、フランスにあるのでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランス王に招かれる

1516年、イタリアの偉大なる芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci )はフランス王フランソワ1世に招かれ、フランスにやってきました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年ー1519年)自画像 1513年 - 1515年頃 トリノ王宮図書館
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年ー1519年)自画像 1513年 – 1515年頃 トリノ王宮図書館

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチ

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

ルーヴル美術館:François 1er (1494-1547), roi de France.

イタリア侵攻の際現地の芸術に触れたフランソワ1世は、すっかりイタリア芸術の大ファンになってしまいました。

レオナルドはフランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に住み、1519年5月2日に死去します。

1516年、フランソワの招待に応じてフランスに来たイタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が老いの身を落ち着けたのは、クロード王妃の住むアンボワーズ城のすぐそばのクロー村であったから、アンもダ・ヴィンチの姿を目にしたにちがいない。

石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社. p.18.

レオナルドがフランスに住み、『モナ・リザ』が今でもフランスに在るのはこのフランソワ1世のおかげということですね。

また、アン・ブーリンがレオナルドの近くにいたのは、フランソワ1世の妃クロードに仕えていたからなのです。

アンボワーズ城(シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王が過ごした城)
シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王が過ごしたアンボワーズ城

引用元:アンボワーズ城   Quality Images by Martin Falbisoner   CC-BY-SA-3.0

レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館(Château du Clos Lucé)
レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館( Château du Clos Lucé )

引用元:クルー城 Nadègevillain CC-BY-SA-3.0

『モナ・リザ』はフランソワ1世の買い上げに

『モナ・リザ』は弟子のサライが相続しましたが、後にフランソワ1世によって買い上げられます。

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング 15世紀末から16世紀初頭
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング 15世紀末から16世紀初頭

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング

弟子サライがモデル?『洗礼者ヨハネ』「チェーザレ・ボルジアのケープ、今、サライのもの」

その後『モナ・リザ』はフォンテーヌブロー宮殿に飾られ、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移します。

革命後はルーヴル美術館へ収められましたが、普仏戦争や世界大戦などの戦禍を避けるため各地を転々とし、一時ナポレオンの寝室に掛けられたこともありました。

『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』( Francis I Receives the Last Breaths of Leonardo da Vinci ) 1818年 ドミニク・アングル プティ・パレ美術館蔵

「レオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取った」という伝承が残っているほど、レオナルドはフランソワ1世から賞賛、厚遇されました。

『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク・アングル 1818年 プティ・パレ美術館蔵
『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク・アングル 1818年 プティ・パレ美術館蔵

引用元:『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』

幼い頃に父を亡くしたフランソワ1世は、レオナルドを父親のように慕っていました。

アンボワーズ城からレオナルドが暮らすクロ・リュセの館まで、フランソワ1世は自ら地下通路を歩いて会いに来ていたそうです。

『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』も掲載ベンヴェヌート・チェリーニの黄金の塩容れ「サリエラ」

フランソワ1世の常備薬はミイラの粉末香油とミイラ 古代エジプトのミイラの使い道

別館【HANNAの書庫】の記事素描『イザベラ・デステの肖像』(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)解説

アン・ブーリン、フランスへ行く 

マルグリット・ドートリッシュの宮廷へ留学

当時のヨーロッパで最も文化水準が高かった、 ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷。

マルグリットは、手元に引き取った甥(後の神聖ローマ皇帝カール5世)や姪たち(後のフランソワ1世の二度目の妻レオノール他)のために私設学校を開いていました。

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵
レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵

引用元:レオノール・デ・アウストリア

イングランドとスペインの関係ですが、イングランドの国王ヘンリー8世の妃はキャサリン・オブ・アラゴンといい、スペインのカトリック両王の娘です。

カールとレオノールにとっては叔母にあたります。

カトリック両王の娘キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵
ヘンリー8世妃キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン

ジェーン・グレイを処刑したイングランド女王メアリー1世はキャサリン・オブ・アラゴンの娘1553年、9日間女王レディ・ジェーン・グレイの処刑

外交官で勉学好きだったトマス・ブーリンは、自分の娘のアンを預かってもらえないかマルグリット(ドイツ名はマルガレーテ)に打診。

マルグリットは了承し、1513年6月半ば、アンはマルグリットの宮廷があるブルゴーニュに送り出されます。

アン・ブーリン 16世紀末 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
アン・ブーリン 16世紀末 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:アン・ブーリン

 一五一三年の、ブーリン宛マルガレーテ総督の手紙が残っている。アンが無事到着したこと、賢い娘さんを預かることになって嬉しい、といった内容だ。このときアンは十三歳だったのだろうか、それともまだたった六歳だったのだろうか? 手紙には、年齢のわりに立ち居振る舞いが立派、との褒め言葉もあるが、そこから類推できることは何もない。十三歳であっても六歳であっても当てはまるからだ。

中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.204.

後にイングランド王ヘンリー8世の妃となり、エリザベス1世の母となるアン・ブーリンですが、生年は諸説有り、はっきりしません。

1500年生まれとすれば、この時アンは13歳くらいです。

しかし、この留学はイングランドとスペインの関係悪化により、短期間で終わりました。

1514年、フランスへ

1514年、フランスへ輿入れするヘンリー8世の妹について、アン・ブーリンもフランスへ渡ることになりました。

メアリー・テューダー (マリー・ダングルテール 1496年3月18日-1533年6月25日) 16世紀 Jean Perréal に帰属
メアリー・テューダー (マリー・ダングルテール 1496年3月18日-1533年6月25日) 16世紀 Jean Perréal に帰属

引用元:メアリー・テューダー

メアリー・テューダー(フランス名マリー・ダングルテール)とルイ12世の結婚は、ルイ12世の死でわずか 3ヵ月で終わりを告げました。

未亡人となったメアリーはイングランドに帰国。

かつての恋人と再婚しますが、ふたりの孫がイングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイです。

フランソワ1世妃クロードの通訳

ルイ12世崩御後、娘婿のフランソワ1世が次のフランス国王になります。

アンは通訳として王妃クロードに仕え、可愛がられました。

流暢なフランス語を話すアンは、同時代の宮廷人からも「言われなければ、外国人だとわからない」とまで言われたそうです。

リエの司教ランスロット・ド・カールは、「その立ち居振る舞いや作法からは、決してイングランドの女性だとは思われないだろう。フランスで生まれ育ったかのようだ」と書いている。

ジェニファー・ライト(著). 二木かおる(訳). 『史上最悪の破局を迎えた13の恋物語』. 原書房. p.91.

いいですねー。語学に堪能なひと、尊敬します。羨ましい。目に見えないところで努力も相当したんでしょうね。

ルイ12世王女、フランソワ1世妃クロード(1499年10月13日 - 1524年7月20日) school of ジャン・クルーエ 1520年頃 コンデ美術館蔵 
ルイ12世王女、フランソワ1世妃クロード(1499年10月13日 -1524年7月20日) school of ジャン・クルーエ 1520年頃 コンデ美術館蔵

引用元:王妃クロード

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

イタリア芸術にハマったフランソワ1世。

レオナルドだけでなく、彫刻や「黄金の塩容れ」で有名なベンヴェヌート・チェッリーニ(チェリーニとも表記)もフランソワ1世に招かれ、1540年から5年間パリに滞在しています。

サリエラ( Saliera ) 1543年 ベンヴェヌート・チェッリーニ 美術史美術館蔵
サリエラ( Saliera ) 1543年 ベンヴェヌート・チェッリーニ 美術史美術館蔵

引用元:サリエラ Gaspar Torriero CC-BY-SA-2.0

美術史美術館:Sogenannte Saliera

目に眩しい黄金の塩容れベンヴェヌート・チェリーニの黄金の塩容れ「サリエラ」

『狩りの女神ディアナ』は、フォンテーヌブロー派の画家ルカ・ペンニの作品と言われていました。

ルカ・ペンニは、1530年頃にフランソワ1世に呼び寄せられたイタリアの画家のひとりです。

女神ディアナに扮したディアーヌ・ド・ポワチエ 1550年代 フォンテーヌブロー派 ルーヴル美術館蔵
『狩りの女神ディアナ』 1550年代 フォンテーヌブロー派 ルーヴル美術館蔵

引用元:『狩りの女神ディアナ』

ルーヴル美術館:Diane chasseresse

別館【HANNAの書庫】の記事愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエの姿『狩りの女神ディアナ』(フォンテーヌブロー派)解説

『残酷な王と悲しみの王妃』の中でも、フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家たちを招聘した件が書かれています。

 王は即位まもなくミラノへ遠征したが、進んだイタリア文化に完全にノックアウトされ、絵画や彫刻、書籍や贅沢ぜいたく品を収集(半ば収奪しゅうだつ)するとともに、おおぜいの芸術家たちを国へ招いて庇護した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年をフランスで送ったのはそのためで、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』があるのもまたそのおかげである(アンが老レオナルドに会う機会はあったのだろうか?)

中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.206.

ルネサンスの花が大きく華麗に開いた時代の宮廷で過ごしていたアン。

後にイングランドに帰国したアンは、粋で、洗練されたフランス仕込みの会話や物腰が人々の目を惹いたそうです。

ダンスやリュートの演奏も上手だったといわれています。

 今のところ「アン・ブーリンがレオナルド・ダ・ヴィンチに会った」という話は無いようですが、もしかしたら遠くから見掛けたことくらいはあったのかもしれませんね。(あって欲しい!)

娘エリザベスについての本ですが、母アン・ブーリンについても書かれています。

主な参考文献
  • 中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫.
  • 『図説 エリザベス一世』 石井美樹子(著) 河出書房新社
  • 『史上最悪の破局を迎えた13の恋物語』 ジェニファー・ライト(著) 二木かおる(訳) 原書房
  • ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 2010-6-30. 『ダーク・ヒストリー 図説イギリス王室史』. 原書房.
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