ヘンリー8世4番目の妃、クレーフェ公国の公女・アンが着る16世紀半ばのハイ・ファッションをどうぞ。

アン・オブ・クレーヴズのお見合い肖像画
アン・オブ・クレーヴズ( Anne of Cleves, 1515年9月22日-1557年7月17日)

引用元:アン・オブ・クレーヴズ
英語名はアン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves、アン・オブ・クレーヴスとも表記)ですが、ドイツ語名ではアンナ・フォン・クレーフェ(Anna von Kleve)といいます。
1515年9月22日、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘としてデュッセルドルフで生まれました。
姉にジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク(ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒの妃、1512年-1554年)がいます。

アン・オブ・クレーヴズは、1540年にイングランド王ヘンリー8世と結婚しイングランド王妃となりましたが、半年後に離婚しました。

引用元:イングランド王ヘンリー8世
アンのファッション
肖像画のなかの被り物
左右は丸く膨らんでいるが、頂部と後頭部は平らになっている。刺繍を施したアンダーキャップのバンドのすぐ上に薄く透ける布がかかっているので、金と真珠でびっしりと覆われたアウター・キャップの豪華さが、よけいに際立って見える。宝石をちりばめて金のペンダントの房をつけた大きな装飾品が、キャップの左側をさらに美しく飾っている。
ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. pp.204-205.

16世紀の被り物「フレンチ・フード」
16世紀、女性の頭飾りに「フレンチ・フード」( french hood )という、小型のフードが登場します。
ヘンリー8世の2番目の妃、アン・ブーリンが被っているものがそれですね。

引用元:アン・ブーリン
フレンチ・フードの装着には、まず白リネンの小さなコイフまたは金のネットを頭にぴったりとかぶり、糊付けしたビロードまたはサテンの帯をボンネットのように後頭部に載せる。この帯は平らに置く場合と傾斜させる場合があり、後部には例外なくベールを垂らし、あごひもがつくことも多い。アン・オブ・クレーヴスがイングランドに到着したとき、この型のフレンチ・フードを着けていたといわれている。
(『アクセサリーの歴史事典 上 頭部・首・肩・ウエスト』 K.M.レスター&B.V.オーク(著) 古賀敬子(訳) P19)
「コイフ」( Coif )は「コアフ」(仏語コアフュールに由来)とも表記します。

引用元:白いコイフを着けた若い女性
肖像画のなかのファッション

アンのボディスの襟あきは、深くウエストラインまでれた珍しい形のスクエアー・ネックだ。金糸で織られたアンダー・ボディスまたはプラストロンの深い襟あきは、金糸刺繍に宝石をセットした縁飾で飾られている。襟あきを埋めるパートレットは首に沿って上昇してスタンド・カラーになり、凝った刺繍が施されている。スタンド・カラーに沿ってカーカネットが巻かれ、鮮やかなビロ-ドのガウンには、真珠をちりばめた贅沢な金のブレードの縁取りが飾られている。袖は、上腕中央の金のブレードから上を膨らませ、ブレードから下は円形に裁断されて、袖口に向かって大きく広がった珍しい形をしている。ウエストラインはまだいくぶん高く、金のバックルつきのガードルを締めてウエストを強調している。
ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. pp.203-204
『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』によると、16世紀頃、「深く大きくあいた襟ぐりの内側に薄い布をかけ、その下に刺繍を飾ったパートレットを着けるようになった」(P197)とあります。
指輪の装着状況
「お見合い肖像画」ですから、彼女の指にはめられているのは当然、結婚指輪ではありません。
へンリー八世と六人の王妃たちの肖像画は、すべてがホルバインの作品ではないが、ほとんどが人差し指、薬指に指輪をはめている。王妃候補のアン・オブ・クレーヴズも右手人差し指と薬指、左手親指に指輪をはめている。共通しているのは複数の指輪を両手にはめていることである。親指と小指の例は少数であるが、中指にはめているものはだれもいない。
浜本隆志(著). 2018-8-30.『指輪の文化史』. ふくろうの本 河出書房新社. pp.73-74.
ヘンリー8世の6人の妃たち
最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン( Catherine of Aragon, 1487年12月16日-1536年1月7日)

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
スペインのカトリック両王の王女で、スペインの「狂女王」フアナの妹。
神聖ローマ皇帝カール5世はキャサリンの甥にあたります。
ヘンリーは、キャサリンとの間に、後のイングランド女王メアリー1世をもうけます。
最初は仲睦まじい夫婦でしたが、アン・ブーリンと結婚するためにキャサリンと離婚しました。

引用元:イングランド女王メアリー1世
2番目の妻アン・ブーリン( Anne Boleyn, 1501年頃-1536年5月19日)

引用元:アン・ブーリン
後継の男子を望むヘンリーは、王妃キャサリンの女官アン・ブーリンに夢中になり、アンを妻に迎えます。
アンはエリザベス(後のエリザベス1世)を出産しますが男子を産むことができず、ヘンリーの関心は別の女性ジェーンに移ってしまいます。
アンは反逆罪に問われ、ロンドン塔で斬首されました。

3番目の妻ジェーン・シーモア( Jane Seymour, 1508年-1537年10月24日)

引用元:ジェーン・シーモア
ヘンリーに待望の男子をもたらしたのは、王妃付きの女官だったジェーン・シーモアでした。
その後ジェーンは産褥熱で死亡します。
世継ぎのエドワードは病弱であり、不安に思ったヘンリーは、側近クロムウェルの助言で次の妃を探し始めました。

引用元:エドワード6世
ハンス・ホルバイン、ヘンリー8世の「花嫁候補」の肖像画を描く
ヘンリー8世を始め、妃ジェーン・シーモア、側近クロムウェルらの肖像画を描いたドイツ出身の画家ハンス・ホルバイン(1497年頃-1543年)は、王の「花嫁候補」の肖像画を描くため、各地の宮廷を訪れます。
デンマーク王女クリスティーナ( Christina of Denmark, Duchess of Milan )

引用元:デンマーク王女クリスティーナ
候補のひとり、デンマーク王女クリスティーナです。
夫ミラノ公を亡くした彼女は未亡人。そのため、肖像画の彼女は喪服姿です。
1538年、ブリュッセルの宮廷に居た彼女は、イングランドの宮廷画家ハンス・ホルバインと面会。
3時間だけモデルになることを承知し、ホルバインは彼女をスケッチしています。
このクリスティーナの母親はイサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)といい、「狂女王」フアナの娘のひとりで、神聖ローマ皇帝カール5世の妹です。

引用元:イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
ヘンリー8世と、叔母キャサリン・オブ・アラゴンの離婚に反対するカール5世の仲は険悪になっていました。
ヘンリーは肖像画のクリスティーナを気に入りましたが、クリスティーナはヘンリーと大伯母キャサリンとの一件、アン・ブーリンの斬首のことも知っていました。
クリスティーナは「私の首が二つあったら一つは王の好きなようにされていいのですが」とやんわり断りました。
クレーフェ公女アンナ
神聖ローマ皇帝カール5世に対するイングランドに取り、クレーフェ公国は戦略上重要な地でした。
1539年、ホルバインは「クレーフェ公女アンナ」の肖像画を描きます。
ヨーロッパでは、プロテスタントの小国がカトリックの大国スペインやフランスの脅威にさらされていた。そうした国の1つがドイツのクレーヴズだった。イングランドにとってクレーヴズ公国はフランスとスペインに対する格好の同盟国になりそうだった。君主のクレーヴズ公ヨハン3世には2人の未婚の娘がおり、1538年、ヨハン公は年長のアンを国王ヘンリーの花嫁として差し出した。
(『ダークヒストリー イギリス王室史』 ブレンダ・ラルフ・ルイス(著) 樺山紘一(日本語版監修) 高尾菜つこ(訳) P138)
側近のクロムウェルからアンの絵を見せられ、アンを気に入ったヘンリーは彼女との結婚を決意。
同じ年の10月にふたりの婚約が成立し、12月27日、アンはケントのディールに上陸しました。
ヘンリーは自ら途中のロチェスターまで花嫁を出迎えに行きます。
しかしホルバインがアンを実際より美しく描き過ぎたのか、ヘンリーは「騙された」と言って怒ったと言われています。
『英国王妃物語』(三省堂選書)によると、彼女をひと目見るなり失望したヘンリー8世は側近たちにまで「どう思うか」と問い詰めたそうです。
ヘンリーはアンを「フランドルの雌ロバ」と罵りますが、まさかはるばるやって来た花嫁を不美人との理由で帰すわけにも行きません。
クレーフェ公国を敵に回すこともできず、クロムウェルに説得されたヘンリーは大きな不満を抱いたまま、1540年1月6日にアンと結婚式を挙げました。

引用元:トマス・クロムウェル
「アンナの鼻が、実際はもう少し長かった」とか、「相当な大女」だったとか、「体臭がきつかった」とか、「老け顔」だったとか。
初夜、ヘンリーは「臭くて眠れなかった」として、夫婦としての床入りはなく、英語に堪能でないアンにも自分が王に気に入られていないことに気付きました。
ヘンリーの愛は既に、5番目の妻となる若い娘キャサリン・ハワードにありました。
クレーフェ公国にも戦略上の価値が無くなり、アンを王妃に推したクロムウェルは反逆と異端の罪を着せられ、ロンドン塔で処刑されます。
それを聞いた画家ホルバインも青くなりましたが、彼に対しての「罰」はありませんでした。
(「処罰されなかったということは、彼が描いた肖像画はアン本人とそれほど大きくかけ離れてはいないのではないか」とする考え方もあるようです)
それ以降の彼は傑作を残すことなく、後年ペストで亡くなりました。
離婚理由
結婚から半年後、アンはヘンリー8世と離婚することになりました。
きちんと解消されていなかったかつての婚約話を理由に挙げられ、離婚を聞かされた時は気絶したそうですが、アンはそれにおとなしく同意します。
アンは「王の妹」( the King’s Beloved Sister )との称号や年金を得て、その後もイングランドに留まりました。
「王の妹」とは、「王妃と王女たちの次の地位である義理の妹としての公の地位」です。(参考:『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』 角川マガジンズ p.25)
元婚約者ロレーヌ公フランソワ1世( François Ier duc de Lorraine )

引用元:ロレーヌ公フランソワ1世
かつてアンと婚約していたロレーヌ公フランソワ1世です。
フランソワ1世は、1541年にデンマーク王女クリスティーナと結婚しました。ヘンリー8世のお妃候補だったミラノ公未亡人です。
「ロレーヌ公国」はドイツ語名では「ロートリンゲン公国」といいます。
フランス革命で処刑されたルイ16世紀マリー・アントワネットの正式名は「マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ」といいますが、このフランソワ1世は、マリー・アントワネットの父ランツ・シュテファンを通して彼女の「ご先祖様」にあたります。
「王の妹」としての生活
アンは、イングランドで暮らす内に英語も上手くなり、ヘンリー8世の娘達であるメアリー(後のメアリー1世)やエリザベス(後のエリザベス1世)とも交流します。
ヘンリーは彼女に年4000ポンドという当時としては莫大な手当てを与え、さらに2つの荘園と専用の城も与えた。それはアンにとってすばらしい結末となった ― 彼女は人生ではじめて豊かで独立した生活を送ることになった。なによりも、彼女はもう安全だった。
その後、1557年に死去するまでの17年間、アンは貴婦人として暮らした。彼女は友人たちのために盛大な晩餐会を開いたり、膨大な衣装の中から毎日違うガウンを選んだりして、生活を存分に楽しんだ。
(『ダークヒストリー イギリス王室史』 P143)
アンナは宮中にヘンリー8世と5番目の王妃キャサリンを訪ねてきて、仲良く3人で食事を共にして談笑していたのです。英語も上手くなり、王の娘のエリザベスとも仲良く付き合って、皆に愛されて暮らしました。
(『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』 P25)
ヘンリーは、妻や恋人としてでなければ、性格も良く、自分に従順なアンを好きだったようです。
ヘンリー8世、再婚する。
5番目の妻キャサリン・ハワード( Katherine Howard, 1521年?-1542年2月13日)

引用元:キャサリン・ハワード
この肖像画はハンス・ホルバインによる細密画です。
キャサリンはアン・ブーリンの従妹、ジェーン・シーモアのはとこにあたります。
最初、若く美しい彼女をヘンリーは溺愛しますが、 1541年に姦通罪で処刑してしまいました。
処刑前のキャサリンの演説は、
“I die a queen, but I would rather have died the wife of Culpepper.”
「私は王妃として死ぬ。でも、カルペパーの妻として死にたかった」
でした。
6番目の妻キャサリン・パー( Catherine Parr, 1512年-1548年9月5日)

引用元:キャサリン・パー
ヘンリー8世の最後の妃となった才媛キャサリン・パーは、アンの住む城を訪れては話し相手になりました。
1557年7月15日、アンは静養先で亡くなります。
遺言で、メアリーにはアンの持つ最も高価な宝石を贈り、またエリザベスにも2番目の宝石を与えたということです。(参考:『英国王妃物語』 p.139)
ホルバインによるアンの細密肖像画

引用元:ミニチュアボックス Wikipedia Loves Art photo pool CC-BY-SA-2.5

この直径は4.6センチほどで、ヴェラム( vellum )にロイヤル・ブルーを背景に描かれています。
ルーヴル美術館にあるアンの「お見合い肖像画」と、恐らく同時期に制作されたようです。
豪華な衣装に被り物に宝石の付いたドレス、指輪と、アン一人分で、一体おいくらだったのでしょう。
1枚の「お見合い肖像画」を通して、16世紀のハイ・ファッションの凄さが伝わってくるようです。
そして、彼女の本当の容姿は…どうだったのでしょうか。気になります。
- 『ダークヒストリー イギリス王室史』 ブレンダ・ラルフ・ルイス(著) 樺山紘一(日本語版監修) 高尾菜つこ(訳)
- 『英国王妃物語』 森護(著) 三省堂選書
- 『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』 有地京子(著) 角川マガジンズ
- 『アクセサリーの歴史事典 上 頭部・首・肩・ウエスト』 K.M.レスター&B.V.オーク(著) 古賀敬子(訳)
- ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房.
- 浜本隆志(著). 2018-8-30.『指輪の文化史』. ふくろうの本 河出書房新社.
コメント
コメント一覧 (6件)
こんにちはー。
最初はとても期待されていた王様ですが、ある時から残虐性が出て来た…と他の本にもかいてありました。
ヘンリーの場合がちょっと極端なのかわかりませんが、昔から人間てそんなに本質は変わっていないのではないかと思います。
また、お見合い肖像画も盛り具合が大事ですね。「当然盛ってる」という前提があっても、あまりかけ離れていると相手のショックも大きいし。
でも写真よりは好きかな(笑)。
今回も有難うございました(^-^)。
こんにちはー。
ヘンリーという男、なんだかなーってのが感想ですが、お見合い写真は、今も昔も盛られてたんですね(笑)。実際に会ってからではダメだったんですかね。 ヒトの嫌な面は現代とかわりませんね。ハンナさんの記事をみるたびに思います。(笑)
女性はいつの世も大変だったんですね。
今回も楽しめました。(^-^)/
パンダ様
コメント有難うございます。
戦争や疫病で、この頃の人間の命の価値って、一部のひとを除けばとても軽かったのだと思います。策略を用いてでも、誰もが生き残ることに必死。そんな中、知恵を働かせて生き抜こうとするひとたちが男女問わずスゴイと思わずにいられません。(このテューダー朝の時代に生きていたら私などはすっごく大変だった気がします…)
パンダ様、今回もびよーんと大きくしていただけたでしょうか。
読んでくださって有難うございました。
ハンナさん、今回は肖像画も楽しませていただきましたが、この時代の怖さを感じました。いつの世も男性上位で腹立たしいです。今日は国際女性の日!女性が幸せな国が本当に良い国だと思います。あれ?違う方に話しが・(^◇^;)
今日も興味深いお話、ありがとうございますヽ(´ー`)
まーたる様
今日もご来店誠に有難うございます。
どの人生もドラマティックですが、このヘンリー8世の王妃達の中で、実は一番お得な(?)人生だったのが、アン・オブ・クレーヴズではないかと思っています。エリザベスとも交流したそうですし、興味が尽きない女性のひとりです。(実際に会ってみたいのはアン・ブーリンですね)
また、公女だけあって、肖像画の中の衣装は本当に手が込んでいますよね。刺繍などもレベルが高い。勿論、超高額な衣装代だったことでしょう。
巨匠クラナッハが彼女の実姉を描いていますが、もし似ていたとしたら、アンはそんなに醜いわけではなかったのかなと勝手に想像しています。
ヘンリー8世の性格についても結構興味深いですよね。当時の権力者って何処まで「暴力的」だったんでしょう。彼の場合は梅毒から来るものと言われることもありますが、気になります。
まーたる様に「勉強に」なんて仰っていただくと非常に恐縮です。「へー」とへらっと楽しんでいただければ私としても大変嬉しいです。
今回も読んでくださって有難うございました。
おはようございます(о´∀`о)
ヘンリー8世とお妃たち、すごく興味深くて、アン・ブーリンは特に興味深い女性です。
映画にもありますよね(*´∀`*)
ヘンリー8世の周りの人達を知るにつけても、ヘンリー8世めちゃくちゃやってるな〜と思ってしまいます(^_^;)
当時の権利者って、そんな感じだったのかな( ̄◇ ̄;)
当時の女性はとてもオシャレですね❗️
オシャレといっても桁違い(*≧∀≦*)
肖像画のアンはすごく知性的に微笑んでいて、すごく素敵です(*☻-☻*)
16世紀のハイファッション、ゴージャスで洗練されていて、素晴らしい(*´∀`*)
ヘンリー8世関連の話は好きなので、今回もすごく勉強になりました❗️
ありがとうございます(*´꒳`*)