画家ヴァン・ダイクの名が付いたレースとヒゲ(ヴァンダイク・ブラウンの項に追記しました)

アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学

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イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃となったアン・ブーリンはフランス語に堪能でした。

10代でネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷に留学し、後にフランス宮廷に移ります。

"Portrait of a Lady, called Anne Boleyn" 1532年-1535年頃 ハンス・ホルバイン画
“Portrait of a Lady, called Anne Boleyn” 1532年-1535年頃 ハンス・ホルバイン画

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目次

アン・ブーリン( Anne Boleyn, 1501年頃-1536年5月19日)

"Portrait of a Lady, called Anne Boleyn" 1532年-1535年頃 ハンス・ホルバイン画
“Portrait of a Lady, called Anne Boleyn” 1532年-1535年頃 ハンス・ホルバイン画

引用元:“Portrait of a Lady, called Anne Boleyn”

巨匠ハンス・ホルバイン(子)による「アン・ブーリンとされる女性の肖像」です。

アン・ブーリンは、イングランド王ヘンリー8世の二番目の王妃、エリザベス1世の生母です。

後に王に対する反逆罪に問われ、斬首されました。

「ブーリン」はブリン、ブリーン、ボレイン、ボレーンと表記されることがありますが、ここでは「ブーリン」としました。

イングランド王ヘンリー8世 1531年頃 ヨース・ファン・クレーフェ ロイヤル・コレクション蔵
イングランド王ヘンリー8世(1491年6月28日-1547年1月28日) 1531年頃 ヨース・ファン・クレーフェ ロイヤル・コレクション蔵

引用元:イングランド王ヘンリー8世(1531年頃)

マルグリット・ドートリッシュの宮廷でフランス語を学ぶ

ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche )

アンの父トマス・ブーリンは語学に堪能で、駐仏大使も務めた外交官でした。

1512年、トマスは、イギリスとの友好促進のため、スペイン領ネーデルラント総督のもとに派遣されます。

当時のネーデルラント総督は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘であり、フィリップ美公の妹、マルグリット(ドイツ語読みではマルガレーテ)・ドートリッシュでした。

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

1477年、ブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死し、娘のマリー・ド・ブルゴーニュが遺されました。

シャルル突進公の死で、ブルゴーニュ公国の領土の大半はフランス王国に併合されてしまい、16世紀初頭にはフランドルと、フランス東部のフランシュ・コンテだけになっていました。(参考:『カール5世とハプスブルク帝国』 創元社)

マリーはハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と結婚し、フィリップとマルグリットの子宝に恵まれます。

しかし、1482年、マリーは落馬事故が元で死亡。「ブルゴーニュ公」は、ふたりの息子であるフィリップ美公が継承しました。

そのフィリップ美公も1506年に亡くなってしまい、1507年、妹のマルグリットが父マクシミリアンによりネーデルラント総督に任命されます。

若くして二人の夫と死別したマルグリットはその後は再婚せず、メッヘルンの宮廷で兄の遺児たちを養育します。

マルグリットの宮廷は、当時のヨーロッパで最も文化水準が高いとされ、他国の羨望の的となっていました、

マルグリットは甥や姪のために学校を開きます。

マルガレーテは子どもたちのために、ヨーロッパじゅうからすぐれた学者を集め、「学校」を設けた。トマス・ブーリンは、マルガレーテに、十一歳ほどになる次女アンを預かってもらえないか打診し、色よい返事を得る。翌一五一三年の六月中旬に、トマスはアンをブルゴーニュに送り出した。

石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社. p.12.

アンはマルグリットの私設学校で、フランス語だけでなく、楽器や舞踏、歌も学びました。 

アンの生年ははっきりしません。

例えば、『英国王妃物語』(三省堂書店)ではアンの生年は1507年となっており、さらに「トマス・ブリーンの長女」となっています。

マルグリットの甥・カール

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

フィリップ美公と妻であるカスティーリャ女王フアナには、6人の子供がありました。

マルグリットは、兄の遺児6人のうち4人の甥と姪を養育します。

このきょうだいの長男が、後のスペイン王であり、神聖ローマ皇帝となるカールです。

カール(フランス語読みではシャルル)は、曾祖父であるシャルル突進公の名から付けられました。

カールはフィリップ美公の死により、ブルゴーニュ公を継承します。

マルグリットは甥であるカールの後見を1515年1月まで務めました。

マルガレーテ大公妃はルネサンス期の才媛の一人で、古典の教養も深く、フランス語の詩を書き、ラテン語に堪能だった。美公といわれた兄フィリップの夭折ののちネーデルラントの総督になった彼女は、甥カールと三人の姪に囲まれた楽しい家庭生活を味わうことができた。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.16,

スペイン生まれのフェルディナント(スペイン語読みではフェルナンド)と、末の妹であるカタリナはスペインで育てられます。

フアナの父であり、子供たちの祖父であるアラゴン王フェルナンド2世は、自分と同じ名を持つフェルナンドを溺愛しました。

カンブレー同盟戦争

1508年から1516年にかけてはカンブレー同盟戦争の時代でした。

イタリア半島における権益を巡り、フランス、教皇国、ヴェネツィア共和国が争ったのです。

この戦争はスペイン、神聖ローマ帝国、イングランド、スコットランド、イタリア諸邦といった当時の西欧諸国のほぼ全てを巻き込み、イタリア戦争における最も大規模な戦争の一つとなりました。

マルグリットも外交・政治の才能を発揮し、父の神聖ローマ皇帝マクシミリアン、甥のカールの側に立ち、オーストリアの対フランス、イタリア政策を支援します。 

イングランドのヘンリー8世がスペインのカトリック両王の娘キャサリンと結婚していたことでもわかるように、イギリスとスペインの関係は悪いものではありませんでした。

カトリック両王の娘キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵
カトリック両王の娘キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン

しかし、1514年、両国の関係は悪化、イギリスとフランスが接近します。

父の希望通りに立派な貴婦人となり、王妃キャサリンに仕えることを願ってフランス語を学んでいたアンでしたが、これ以上スペイン領であるマルグリットの宮廷に留まることは出来ませんでした。

アンはマルグリットのを元を離れ、ルイ12世の王女クロードの宮廷に移ります。

翌1514年、フランスで、国王ルイ12世とイングランドのヘンリー8世の妹の婚礼が行われました。

ルイ12世王女・クロード・ド・フランスの宮廷へ

ルイ12世王女クロード・ド・フランス( Claude de France, 1499年10月13日-1524年7月20日)

ルイ12世王女、フランソワ1世妃クロード(1499年10月13日 - 1524年7月20日) school of ジャン・クルーエ 1520年頃 コンデ美術館蔵 
ルイ12世王女、フランソワ1世妃クロード(1499年10月13日 – 1524年7月20日) school of ジャン・クルーエ 1520年頃 コンデ美術館蔵

引用元:クロード・ド・フランス

クロード・ド・フランスは、フランス王ルイ12世とブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュの長女です。

ルイ12世(1462年6月27日-1515年1月1日) 1514年頃 ロイヤル・コレクション蔵
ヴァロワ朝第8代のフランス王ルイ12世(1462年6月27日-1515年1月1日) 1514年頃 ロイヤル・コレクション蔵

引用元:ルイ12世

クロードは1499年10月14日に生まれ、1524年7月20日に20代の半ばで亡くなりました。

一時、神聖ローマ皇帝カール5世との婚約の話もありましたが、1514年、親戚関係にあるフランソワ(後のフランス国王フランソワ1世)と結婚し、後のアンリ2世をもうけます。

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
ヴァロワ朝第9代のフランス王フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

アンリ2世 1553年頃 フランソワ・クルーエ フランス国立図書館蔵
ヴァロワ朝第10代のフランス王アンリ2世(1519年-1559年) 1553年頃 フランソワ・クルーエ フランス国立図書館蔵

引用元:アンリ2世

 ルイ12世はクロードを気にかけ、よく彼女の生活するブロワを訪れました。

もっと大きくなったとき、彼女は父に連れられて狩猟に行った。大使アンドレア・ダ・ボルゴからマルグリット・ドートリッシュ〔ネーデルラントの女性統治者〕への手紙がそれについて報告している。おそらく鷹狩りだったと思われるが、彼女は従者が跨る馬の後尻に乗せてもらってついて行くことができた。

阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.47.

アンヌ・ド・ブルターニュが1514年1月に亡くなると、同じ年の10月、ルイ12世はイギリスのヘンリー7世の娘メアリーと再婚します。

ヘンリー7世王女メアリー・テューダー( MaryTudor, 1496年3月18日-1533年6月25日)

マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー) 16世紀 Jean Perréal 画
マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー) 16世紀 Jean Perréal 画

引用元:メアリー・テューダー

英語名はメアリー・テューダー、フランス名はマリー・ダングルテール(Marie d’Angleterre メアリー・オブ・イングランド)といい、ヘンリー8世の妹です。

この王女に付き従ってきた侍女のなかに、クロードは気持ちの通じる一人の若い女性と出会うのだが、その女性こそ、のちに数奇な運命を辿るアン・ブーリン〔イギリス王ヘンリ八世の妃。エリザベス一世の母〕だった。

阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.49.

どうしても嫡子となる男児を諦め切れずにメアリー(マリー)と結婚したルイ12世ですが、ルイは3ヶ月後に亡くなり、娘婿のフランソワが国王になります。

フランソワの妃クロードはフランス王国の王妃となりました。

1515年フランソワ1世立ち合いの元、メアリーは元恋人チャールズ・ブランドンと秘密結婚し、その後イングランドに帰国します。

イングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイは、恋人と再婚したメアリーの孫に当たります。

メアリーの去ったフランス宮廷であったが、幼いとはいえ優れた資質を持つアンは宮廷の誰からも可愛がられ、ルイ一二世の娘のクロードの保護のもとに教育されることになった。音楽、舞踏、刺繍、そしてラテン語に至るまで、宮廷のマナーとともに磨きをかけたアンは、一五二二年までの八年のフランス滞在で見違えるほどのレディーに成長した。

森護(著). 1986. 『英国王妃物語』. 三省堂書店. p.123.

『英国王妃物語』(1986年、三省堂書店)の、メアリーが登場する「アン・ブーリン」の項には誤りがあります。「王弟メアリー」ではなく「王妹メアリー」ですし、「シャルル一二世」は「ルイ一二世」、「結婚後わずか八ヶ月」ではなく「三ヶ月」など単純な誤植かなと思われます。お読みになる際はお気をつけください。

クロードの妹ルネ・ド・フランス( Renée de France, 1510年10月25日-1574年6月12日)

ルネ・ド・フランス(1510年10月25日-1574年6月12日) 1520年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵
ルネ・ド・フランス(1510年10月25日-1574年6月12日) 1520年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵

フェラーラ公妃ルネ・ド・フランス

クロードには妹がひとりいました。ルネ・ド・フランスです。

フランス語名はルネ・ド・フランス、イタリア語名ではレナータ・ディ・フランチア( Renata di Francia )です。

ルネもアン・ブーリンの優しさを感じていた一人でした。

1528年4月、ルネは結婚します。

義兄フランソワ1世からは多額の持参金や年金を贈られました。

相手は、フェラーラ公アルフォンソ1世の跡継ぎエルコレ2世。

彼の母はルクレツィア・ボルジア。

ローマ教皇アレクサンデル6世は祖父に、チェーザレ・ボルジアは伯父に当たります。

フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ (1508年4月5日-1559年10月3日)
フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ (1508年4月5日-1559年10月3日)

引用元:エルコレ2世・デステ

ルネの宮廷も大変進歩的なものとして知られ、宗教改革で知られるジャン・カルヴァンとも親交がありました。

1572年の「聖バルテルミーの虐殺」では、ルネはユグノーに救いの手を差し伸べることになりました。

錦野の会見

クロード王妃の通訳を務めるほど流暢なフランス語を話し、優雅な所作を身につけたアン。

彼女の考案したファッションはフランス宮廷の流行にさえなりました。

1520年6月、フランスの、カレー近郊バランゲムの平原で、「錦野の会見」が行われます。(『フランス王妃列伝』では「金襴の野営地」)

1518年の英仏条約を受け、ヘンリー8世とフランソワ1世両君の親交を深めるための会見ですが、

その年の春、「金襴の野営地」(camp du drap d’or)の名で知られるフランス王とイギリス王の長々しい会見式典が〔フランドルのカレー近くで〕おこなわれた。それは二人の王のあいだの個人的で持続的な友情を築くことが狙いだった。そのエピソードの一つとして、六月十日、それぞれの王と王妃が取り替わる余興が催された。ちなみにヘンリ八世は、クロードから〔フランス側の〕アルドル城で個人的な夕食会の招待を受けた。彼女は二ヵ月後に出産を控えていた。外国の使臣たちは「彼女の奇怪な肥満」にびっくり仰天した〔彼女の妊娠を知らず、変装していると思ったのである〕。

阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.63.

1518年から1521年にかけてフランス駐在大使を務めていたアンの父・トマス・ブーリンは、この会見を実現させるための交渉に当たっていました。

また、メアリー・テューダー(マリー・ダングルテール)のかつての恋人であり、再婚相手である初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンは、この会見にも随行していました。

アンがヘンリー8世妃キャサリンの侍女として仕えることができるよう口添えしたそうです。

初代サフォーク公チャールズ・ブランドン(1484年頃-1545年8月22日) 1530年頃
初代サフォーク公チャールズ・ブランドン(1484年頃-1545年8月22日) 1530年頃

引用元:チャールズ・ブランドン

1522年初頭(1526年頃ともいわれます)、アンはイングランドに帰国します。

姉妹のメアリーは一足早くフランス宮廷から帰国しており、ヘンリー8世の愛人となっていました。

メアリー・ブーリン(1499年または1500年頃ー1543年7月19日)
メアリー・ブーリン(1499年または1500年頃ー1543年7月19日)

引用元:メアリー・ブーリン

この後アンはキャサリン王妃の侍女として出仕するようになり、イングランドを継ぐ嫡子を望むヘンリー8世から求愛されます。

1533年1月25日、アンはヘンリー8世とひそかに結婚。 

その年の9月、後のイングランド女王となるエリザベスが誕生しました。

テューダー朝第5代の君主エリザベス1世(1533年9月7日-1603年4月3日) 1575年頃の肖像画 ( Darnley Portrait ) ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
テューダー朝第5代の君主エリザベス1世(1533年9月7日-1603年4月3日) 1575年頃の肖像画 ( Darnley Portrait ) ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:エリザベス1世

1536年、娘メアリー(後のイングランド女王メアリー1世)と会うことも出来ないまま、キャサリン・オブ・アラゴンは失意のうちに病死します。

男児ではなく女児エリザベスを産んだことを「神の裁きを受けた」と言われ、王の寵愛を失ったアンは斬首されます。

しかし、あまり語られないネーデルラントやフランス留学時代のことを考えると、語学の才に恵まれた、機知に富んだ女性だったのだなと思います。

主な参考文献
  • ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 『カール5世とハプスブルク帝国』. 創元社.
  • 石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社.
  • 森護(著). 1986. 『英国王妃物語』. 三省堂書店.
  • 江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房.
  • 阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂.
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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ma-taru様
    とても嬉しいお言葉を有難うございます。
    私も日本史大好きです。書きたいことが多くて、まだ辿り着けておりませんが。
    元々骨董屋になりたくて、他大学での聴講、宝石学校、カルチャーセンター、外国語などいろいろ勉強しました。
    いつかお時間のある時にでも「ブログについて」のカテゴリー内の記事に目を通していただければ、私が「文化史」にこだわっていることがおわかりいただけるのではないかと思います。学校の歴史の授業ではあまり教わらない、庶民の生活道具や美術品の由来や来歴、それが生まれた社会背景にとても惹かれています。
    正直言いまして、別に知らなくてもいいような話題ばかりが並んでいます。
    それでもまた読んでいただけるなら大変嬉しいです。
    有難うございました。

  • こんにちは❗️
    はじめまして(*´∇`*)
    私は日本史が大好きなんですが、世界史も好きで中でも中世にとても興味があります❗️
    ヘンリー8世を取り巻く女性たちや宮廷事情とかすごい(´⊙ω⊙`)と思いながら、その人間模様に惹かれたりしています。
    知らないことばかりですごく勉強になり、もっと歴史が好きになりました❗️
    これからも楽しみに拝見させていただきます(*´∇`*)
    ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡

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