神聖ローマ皇帝カール5世の生母、カスティーリャ女王フアナ。19世紀の絵画で、フアナの人生を辿ります。
カスティーリャ女王フアナ( Juana, 1479年11月6日-1555年4月12日)
引用元:カスティーリャ女王フアナ
美術史美術館:Königin Juana “Die Wahnsinnige” (1479-1555)
カスティーリャ女王フアナは、「狂女フアナ」( Juana la Loca )としても知られ、その狂気が後世の画家たちによってドラマティックに描かれています。
引用元:フアナ
美術史美術館:Johanna “die Wahnsinnige” (1473-1555)
フアナの家族
フアナは1479年11月6日、コロンブスの支援者だった「カトリック両王」の3番目の子どもとして、カスティーリャ王国で生まれました。
母はカスティーリャ女王イサベル1世、父はアラゴン王フェルディナンド2世です。
引用元:カスティーリャ女王イサベル1世
プラド美術館:La reina Isabel la Católica
引用元: アラゴン王フェルナンド2世
美術史美術館:König Ferdinand II. (1452-1516) von Aragon
イサベル1世は大変聡明な女性、難攻不落なグラナダを落としたフェルナンド2世は「アラゴンの狐」と呼ばれるほど知恵の回る男性です。
レコンキスタ(国土回復運動)達成により、ふたりは教皇アレクサンデル6世から「カトリック両王」の称号を授けられました。
引用元:アレクサンデル6世
フアナの妹に、ヘンリー8世の最初の妃となったキャサリン(スペイン語名はカタリーナ)がいます。
母イサベルは娘たちに音楽や踊りは勿論、糸紡ぎ、機織り、パン焼きなどの家事も教えました。
読書好きでおとなしいフアナはラテン語や踊りに秀で、姿も美しく、
「まだ、十六歳だというのに大人の女性の気配を漂わせている。整った姿の持ち主であり、顔は卵型で額ははっきりしている。髪はうなじのところでまとめて三つ編みにしている。首は優雅に細く、胸はふくよかだがそれを衣服で包み隠していた。それが、きちんと教育された女性には、当然のことだったからだ」
西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. p.45.
と評されました。
兄妹たちの二重結婚(フアナとフィリップ、フアンとマルグリット)
1496年10月20日、フアナはブルゴーニュ公フィリップと結婚します。
フィリップ美公は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男で、母譲りの美貌を持つ青年でした。
フアナの兄フアンの結婚相手は、そのフィリップ美公の妹マルグリット(ドイツ語名はマルガレーテ)。
対フランス政策のための、スペインとオーストリアを結ぶ二重結婚でした。
ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公、Philippe le Beau, 1478年7月22日-1506年9月25日)
引用元:フィリップ美公
美術史美術館:Philipp “der Schöne” (1478-1506)
マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche, 1480年1月10日-1530年12月1日)
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
嫁入り先であるフランドルの地に到着したフアナを待っていたのは、マルグリットでした。
この頃、幼い頃からのフランスでの人質生活を終えたマルグリットは故郷に戻っていたのです。
新郎のフィリップが姿を見せなかったことにフアナはがっかりしましたが、マルグリットは習得したスペイン語で義姉を温かく出迎えます。
マルグリット自身、この艦隊で新郎フアンの待つスペインに渡ることになっていました。
引用元:フアン
マルグリットの結婚
健康的で愛らしい花嫁マルグリットにフアンは夢中になり、義理の両親となったイサベルやフェルナンドは彼女を実の娘のように可愛がります。
しかし、病弱だったフアンは結婚から半年後に19歳という若さで亡くなり、マルグリットのお腹の子どもは死産でした。
イサベルはマルグリットにスペインに留まるように勧めますが、夫も子どもも失ったマルグリットには留まる理由が無くなってしまいました。
マルグリットはイサベルの誘いを断り、神聖ローマ皇帝である父マクシミリアンの元へ帰ります。
フィリップとの対面
フランドルに着いたフアナはイサベルの言いつけ通り、女子修道院に腰を落ち着けました。
7日経ち、待ちに待ったフィリップがやって来ます。
父マクシミリアンの代理で主催していた議会が終わると同時に、花嫁会いたさに馬を飛ばして来たのです。
異国から来た美しい花嫁を気に入ったフィリップは対面して数時間後、もう今日結婚式を挙げると言い出しました。
「司祭を呼んで来い」と言うフィリップに、女子修道院長は慌てます。
この結婚は、王家と王家、国と国との結びつきなのです。
しかし、フィリップに魅せられたフアナも同意し、寝ていた司祭が起こされて連れて来られ、結婚式が執り行われました。
フアナ16歳、フィリップ17歳でした。
語学が堪能で美しいフアナはフィリップの自慢でした。
1498年に最初の子レオノールが生まれます。フアナは乳母に任せることはせず、自ら母乳を飲ませました。
引用元:レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)
美術史美術館:Königin Eleonore von Österreich (1498-1558)
1500年には待望の長男カール(ドイツ語読みでカール、フランス語読みでシャルル、スペイン語読みでカルロス)が誕生しました。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
激しい恋に落ちたふたりでしたが、フィリップは元々傲慢で享楽的な遊び人。
フアナの父フェルナンドは浮気性でも、妻であるイサベルを深く愛していました。
フィリップも最初のうちは良かったのですが、次第にフアナに飽きてしまうのです。
カスティーリャ王位をめぐり夫と父が対立
1497年、フアナの兄フアンが亡くなります。懐妊していたマルグリットも男児を死産。
翌1498年には、フアンの姉でポルトガル王マヌエル1世妃イサベルも死去しました。
更に1500年にはそのイサベルの子どもであるミゲルも、2歳になる直前に亡くなってしまいます。
王国の後継者を次々に失って悲しみに暮れるカトリック両王は、次のカスティーリャの王位継承者としてフアナを呼び戻すことにしました。
喜んだのはフィリップです。
現在のブルゴーニュ公の称号に加え、「カスティーリャ王位」も手に入りそうなのです。
しかし、フィリップが実は「親フランス派」であること、勝手にスペインの後継者を名乗ったことがアラゴン王フェルナンド2世の耳に入り、大いにその顰蹙を買ってしまいました。
フアナの出産も重なり、ハプスブルク家の宿敵であるフランスを通過してフアナとフィリップがスペインの地を踏んだのは1502年のことでした。
既にフアナにはカスティーリャ女王になる決心がついていました。
3人の子の母となっても彼女はフィリップを熱愛していましたが、故国も両親のことも愛していたのです。
イサベルは体調がすぐれませんでしたが、フアナとの再会に、宮廷には久しぶりに明るさが戻ります。
しかし、そこにまた新たな訃報がもたらされました。
ヘンリー7世の王子で、イングランドに嫁いだカタリナの夫アーサーが15歳で急死したのです。
イングランドでは後継者を失ったヘンリー7世夫妻も悲しみの底にありました。
カタリナは後に、アーサーの弟ヘンリーと婚約、結婚します。
カスティーリャに残されるフアナ
カトリック両王は娘の夫であるフィリップの軽薄な性格を見抜いていました。
一方、辛気臭いスペイン宮廷に嫌気が差していたフィリップ。
父や舅たちと異なりフランスと結びたいフィリップは、妊娠中のフアナを置いて、ひとりフランドルに帰ってしまいます。(ブルゴーニュといえば現在はフランスですが、この当時はハプスブルク領です。しかし、気候も陽気な雰囲気もフランスと通じるものがありました。禁欲的なスペインの宮廷とは大きく違っていたようです。)
「女がいるのではないか」「浮気しているのではないか」
フアナは激しい猜疑心に苛まれるようになっていきます。
「歩いてでもフランドルへ帰る」と狂ったように叫ぶ娘を母イサベルは「妊娠中だから気が立っているのですよ」と宥めますが、実はその姿に自分の母親を重ねていました。
幽閉先の地名を取って「アレバロの狂女王」と呼ばれるほど、常軌を逸した行動を取るイサベルの母。
イサベル自身に狂気は出ませんでしたが、その芽は娘のフアナに受け継がれていたのです。
この先ご覧いただく絵画は、「歴史画」と呼ばれるジャンルの、後世の画家が描いた歴史上の出来事の絵です。
『イサベルの母の狂気』( La demencia de Isabel de Portugal o la Primera infancia de Isabel la católica ) 1855年 ペレグリ・クラベ・ロケ
母に寄り添う子ども時代のイサベル女王とその弟を描いた歴史画です。
引用元:『イサベルの母の狂気』
夫を追ってフランドルへ戻る
1503年3月、フアナは次男のフェルナンド(ドイツ語名はフェルディナンド)を無事出産します。
次女王としてここに留まって欲しいというイサベルの願いには耳を貸さず、生まれたばかりのフェルナンドも置いて、彼女はフランドルに戻って行きました。
そこで彼女はフィリップの浮気の相手を見てしまいます。
フアナは手にした鋏で彼女の髪を切り落とし、それだけでは足らず、その頬にも切り付けて傷を負わせたのです。
小部屋に監禁されたフアナは頭を壁に打ち続け、フィリップは彼女を部屋から出さないよう指示を出します。
「もうお前とは寝てやらぬ!」というフィリップの言葉にフアナは泣き続けました。
『イサベル女王の遺言』( Queen Isabel la Católica dictating her last will and testament ) 1864年 エドゥアルド・ロサレス プラド美術館蔵
引用元:『イサベル女王の遺言』
プラド美術館:Isabel la Católica dictando su testamento
1504年、ついにイサベル女王の命が尽きるときが来ました。
イサベルの遺言は、
「王位はフアナに継承する。
フアナの夫フィリップは、フアナの配偶者としての地位を有する。
フアナがスペインに不在のとき、または、健康上の理由でスペインの統治が不可能なとき、カルロス(シャルル、カール)が20歳に達するまで、フェルナンドが摂政としてカスティーリャを統治する」
というものでした。
外国人であるフィリップは「フアナの夫」に過ぎず、カスティーリャ王位に就くことはできません。
父フェルナンドも「カスティーリャ王」にはなれません。
フェルナンドはアラゴンの王ではありますが、カスティーリャはイサベルの王国です。
カスティーリャで多くの時を過ごし、法を整備し、国力を大きくしたのはフェルナンドの功績ではありました。
イサベルが夫を後継者に指名しなかった以上、彼が王位を有するのはアラゴンだけなのです。
中央に白い衣服でベッドにもたれ掛かっているのが、この絵の主役のイサベル女王、ここはメディ―ナ・デル・カンポのモタ城です。以前には、イサベル女王はモタ城で亡くなったとされていました。だから、この絵の舞台はモタ城なのです。今まさに死なんとしている女王の横たわるベッドには、天蓋がかかっており、その端には、カスティーリャの国を表す盾が縫いつけられています。二つの背の高い枕にもたれ掛かり、彼女特有のヴェールが胸まで覆っています。そして胸の上には、巡礼者の印である貝殻と、サンティアゴ騎士団の十字架をかけています。今、彼女の最後の意志を伝えようと右手を伸ばして指図をしようとしています。ベッドのこちら側で、斜めになった机の前に座り、イサベル女王の言葉を書き留めようとしているのが、女王付きの公証人です。絵の左端に、小さなオイル・ランプが灯を灯している、小さな祈祷室があり、そこに背を向けて座っているのが、フェルナンド王。心はかき乱され、その姿は後悔しているように見えます。視線はぼんやりと宙を見つめ、その自分の腕の重みをすべて椅子の腕に投げかけ、足はビロードの絨毯の上に投げ出しています。その横に、手を合わせて視線を下に向けて立っているのが、娘のフアナ。ベッドの足下には、イサベル女王に仕える宮廷の貴族たちがいます。先頭にいるのが、トレドの枢機卿であるシスネーロ、彼は常に身に纏っている権威ある服装をしています。ベッドの後ろにも人影があり、天蓋の陰には、彼女が最も信頼していたモヤ侯爵がいます。そしてベッドの向こうの薄暗い背景にある時計は女王の臨終の時を正確に刻んでいるのです。
西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. pp.129-130.
※文中「シスネーロ」となっていますが、後で出て来る「シスネーロス」だと思われます。Francisco, Cardinal Jiménez de Cisneros( 1436年カスティーリャ生まれ-1517年11月8日死亡)
本書では画家ロサレス自身の言葉も紹介されていますが、ここではその一部をご紹介します。
「(略)
シスネーロスの横顔は天蓋のカーテンから見事に切り取られ、その痩せた様子から彼の年齢が伺え、そのことが、誰もが知っている、彼の性格である意志の強さ、現在覇権の中央に位置していること、洞察力のある抜け目のない政治家であることを、表している。
最後に、カーテンの向こうの深いところに、小心そうに顔を覗かせているのがモヤ侯爵で、彼が身分の低い、女王の使用人であることを表している。しかも大胆にぼやけた顔立ちは、誠実な人柄と女王に傾倒していることを表している」
西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. p. 131.
ところで、この絵にはおかしい箇所があります。
そう、フアナがいることです。
フアナはフランドルの宮廷にいて、母の臨終には立ち会えませんでした。
不在だったフアナを敢えて配置することで、彼女の王位継承を示唆し、彼女の戸惑い、フェルナンドの失望を表現したようです。
夫フィリップと父フェルナンドの思惑
「ずる賢いアラゴンの狐」フェルナンド王はカスティーリャの貴族には不人気でした。
彼らの中には、頭の良いフェルナンドと違い、軽薄なフィリップなら容易く懐柔でき、自分たちの思い通りにできるのではないかと考え、フィリップ支持に回る者も出始めました。
父フェルナンドからの「カスティーリャの統治権を譲って欲しい」という密書に、フアナは考えます。
「本当の統治者は自分だが、現在自分はフランドルにいる。
フィリップはカスティーリャを統治したいと言い出すだろうが、彼よりはお父様に任せる方がいい。お父様の方が信頼できる」
フアナの送った密書は、不運にもフィリップの手に渡ってしまいます。
フィリップは、フアナがスペインから連れてきた従者を遠ざけ、監禁。
暴れるフアナの狂気を喧伝し始めました。
その頃フェルナンドはフィリップに対抗するためフランスと組み、 フランス貴族の娘を妻にしますが、カスティーリャ貴族からは大変な不評を買ってしまいます。
このあたりのことを『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』(光文社新書)では、
面白くないのは夫のフィリップで、彼は女王の夫ではなく、自分が王位につきたがり、その支援をたのむべく敵国フランスに接近。怒ったフアナの父フェルナンドが、それなら自分がカスティーリャ王を兼ね、若い後添えをもらって、その女性との間の子を世継ぎにしようと謀る。
間に立たされたフアナの苦しみは想像するにあまりある。どちらにとっても自分は邪魔者なのだ。こうなれば何としても女王の冠だけは手渡すまい、と必死になる…。
中野京子(著). 2008-8-15. 『名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語』. 光文社新書. p.44.
1506年、王位継承のためフアナはフィリップと共に海路でスペインに向かいます。
その後のフェルナンドとフィリップによる交渉の結果、フェルナンドはアラゴンに退くことになりました。
フェルナンドの頭には、いずれフィリップは統治に失敗するだろうという考えがあったようですが、この会見を知らなかったフアナは父を追おうとしてフィリップ側に阻止されます。
夫フィリップの死
勝利に酔うフィリップ。 1506年9月の猛暑の日。
祝賀行事に続く騎馬試合、球技と、その日たくさんの汗をかいたフィリップは大量の水を飲み干しました。
何かのウイルスにかかったような症状が出ていたとのことですが、急いで医者が呼ばれました。
悪寒と嘔吐に襲われ、浮腫、発疹の出たフィリップは幽閉されているフアナの元へ運び込まれます。
この当時宮廷のあったブルゴス周辺ではペストが忍び寄っていました。
その時また妊娠中であったフアナはつきっきりで看病をします。
祈り、彼の今までの行いの全てを許しました。
病床のフィリップはフアナを片時も離さなかったそうです。
フアナは寝ずに看病を続け、フィリップも彼女だけを呼ぶのです。
しかし、9月25日にフィリップは亡くなりました。
『狂女王フアナ』( Jeanne la Folle attendant la résurrection de Philippe le Beau son mari ) 1836年 シャルル・ド・スチューベン リール美術館蔵
引用元:『狂女王フアナ』
美しい甲冑や転がる冠は、フィリップの手から滑り落ちたカスティーリャの王位を示すものなのでしょう。
しばらくの間は誰も彼女を、息の絶えたフィリップの傍らから離れさせることはできなかった。それからのフアナは何日もの間、正気を失い、ぼんやりと物思いに耽っているように見えた。彼女はすでに完全に理性を喪失しているようだった。
江村洋(著)『ハプスブルク家の女たち』 講談社現代新書 p.46.
『ドニャ・フアナの精神錯乱』( Demencia de Doña Juana de Castilla ) 1866年 ロレンソ・バリェス プラド美術館蔵
引用元:『ドニャ・フアナの精神錯乱』
プラド美術館:La demencia de Juana de Castilla
「ドニャ」は女性に対する尊称です。
フィリップの死を受け入れていないファナの仕草と、ふたりの宮廷貴族と高位聖職者の表情が印象的です。
困惑。諦め。床に散らばった花は萎れ、登場人物の絶望を暗示しているようです。
ロレンソ・バリェスという画家の描いた「ドニャ・フアナの精神錯乱」と題した絵で、こう説明されています。
「女王は、墓から夫フェリペの遺骸を掘り起こさせ、部屋の豪華なベッドの上に寝かせた。フアナは以前にカルトゥッハのある司祭の話したことを思い出していた。それは、ある王が、死後十四年間大切に見守られ、ついに生き返った、という話で、彼女はその話を思い出しながら、一時もフェリペの遺骸の側を離れずに、彼が生き返るであろうその素晴らしい時を待ち望んでいた。宮廷のもっとも信頼されて尊敬されている人たちが、フアナの振る舞いをやめさようと箴言しても、彼女はいつもこう答えるのだった。静かにしなさい、そして、祈りなさい。フェリペが目を覚ますのを、十四年間、待ちましょう」
西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. pp. 162-163.
『狂女王フアナ』( Juana la Loca ) 1877年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
引用元:『狂女王フアナ』
一体、何の儀式の絵か、と思ってしまうような。
周りの人々は疲れた表情で、中央に立つ女性を見つめています。
夫の死を認めようとしないフアナは、フェリペ一世の遺体を豪奢な柩に収め、昼間は明るさを嫌って部屋に閉じ籠もり、夜ともなれば村から村、修道院から修道院へと柩を運ばせてカスティーリャの荒野をさまよい歩いたとの逸話が残されている。狂気の例証としては格好の話であるが、実はペストを避けて移動したのだともいわれる。
岩根國和(著). 2015-5-10. 『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』. 中公新書. p.38.
文中「フェリペ」または「フェリペ1世」とありますが、これはフィリップ美公のことで、スペイン語読みをしています。「フェリペ1世」とあるのは「カスティーリャ王」としてのフィリップのことです。
12月10日。滞在していたブルゴスにペストの恐怖が近付きます。
かつてフィリップが自身の埋葬場所として指定したグラナダへ向けて、彼女の旅が始まりました。
立派な黒塗りの寝棺は、金で装飾された双頭の鷲の紋章入り。死者はハプスブルク家の人間なのだ。さらに柩の敷き布にはブルゴーニュの紋章もあることから、これがマクシミリアン一世の息子フィリップ(スペイン語読みではフェリペ)とわかる。ということは、尋常ならざる様子のこの女性が、未亡人フアナだ。「フアナ・ラ・ロカ(狂女フアナ)」と呼ばれるようになった大きなきっかけが、実はこうした常人に理解しがたい行動による。
フィリップが突然死したとき、カスティーリャ女王の座にあったフアナは六人目の子をみごもっていた。以前から精神的に不安定だったこともあり、夫の死を受け入れねばという気持ちと、まだ死んでいない、必ず復活する、との願望に心を引き裂かれたらしく、防腐処理をほどこした遺体とともに、長期間にわたってスペインの野を彷徨した。
中野京子(著). 2008-8-15. 『名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語』. 光文社新書. p.39.
足元に落ちたままの膝掛け。大きなお腹で、瞳に狂気を宿すフアナの姿。
ミサを上げていますが、冬の荒野のなか従者たちは皆疲れ切ってしまっています。
背景の右上に見えるのは女子修道院で、女性問題が絶えなかったフィリップには例え修道女でも近付けまいとするフアナの心情が見えるようです。(参考:『カール5世とハプスブルク帝国』 創元社)
旅の途中である 1507年1月14日、フアナは6番目の子どもであるカタリナを出産しました。
その後父フェルナンドと再会を果たしますが、フェルナンドはフアナをトルデシリャス(トルデシーリャスとも表記)へ幽閉します。
フアナはそこで、76歳で亡くなるまでの46年間を過ごします。
フランドルからやって来た息子のカルロスが、バリャドリッドへ向かう途中に挨拶に寄ったときも顔の見分けがつかず、自分はカスティーリャ女王であると主張してどうしてもカルロスへの譲位に同意しなかった。したがって、フアナと共同統治のかたちをとって実質上の職務を遂行していたカルロスが、正式にスペイン王として即位できるのは母親が亡くなった一五五五年だった。
岩根國和(著). 2015-5-10. 『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』. 中公新書. p.38.
フアナとフィリップの息子、カルロス(カール)は、幼くして父フィリップからブルゴーニュ公を継承しています。
スペイン王として即位したのはフアナが亡くなってからでした。
引用元:カール5世
『トルデシリャスの宮殿に幽閉中のフアナ』( Doña Juana la Loca recluida en Tordesillas ) 1907年 フランシスコ・プラディーリャ サラゴサ美術館蔵
この絵を描いた19世紀の画家フランシスコ・プラディーリャは, 夫の浮気に耐えられず, 愛に狂い, トルデシリャスの城塞に幽閉された女王フアナの姿に心をとらえられたのであろう。
しかし, フアナは政治的な陰謀の犠牲者だという説もある。最初は夫のフィリップ美公が, 次に父のフェルナンドが, 彼女を権力の座から引き離すために仕組んだことだというのだが, この説に客観的な根拠はまったくない。
ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 遠藤ゆかり(訳). 2002-9-20. 『カール5世とハプスブルク帝国』. 創元社. p.34.
『幽閉中のフアナ』( La reina doña Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la infanta doña Catalina ) 1906年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
引用元:『幽閉中のフアナ』
プラド美術館:La reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la infanta Catalina
フアナと一緒にいる女の子は、末娘カタリナ(1507年1月14日-1578年2月12日)。
後にいとこであるポルトガル王ジョアン3世の王妃となります。
カールが17歳、姉レオノールが19歳のとき、ふたりは母フアナと対面します。
レオノールは輿入れのためポルトガルへ向かう途中でした。
フランドルで生まれ育ったカールはスペイン語ができず、母親にフランス語で話しかけました。
カールはフアナに会う目的以外に、父フィリップの葬儀をあげるためにトルデシリャスへ来たのですが、そこでみすぼらしい身なりの妹とも対面します。
レオノールもカールと同じように可哀想な妹のことが気掛かりでした。
ふたりはカタリナを母から引き離す計画を立て、臣下が迎えに行き、連れて帰ってきます。
しかし、もうカタリナしか残されていなかったフアナの絶望は深く、フアナの状態を考えたカールはやむなくカタリナをフアナの元に戻します。
その後約8年を母と過ごしたカタリナは、18歳になる前に、ポルトガルに嫁いでいきました。
引用元:カタリナ
プラド美術館:La reina Catalina de Austria
フアナの孫たち
神聖ローマ皇帝となったカール5世はその後何度も母を訪ねています。
1536年には自分たちを連れてきました。フアナは大喜びしたそうです。
次には、カールの息子、孫のフェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)自身が、妃マリア・マヌエラを連れてやってきました。
引用元:スペイン王フェリペ2世
マリア・マヌエラはフェリペの最初の妃で、マリアはフアナの末娘カタリナの産んだ王女でした。
引用元:マリア・マヌエラ
プラド美術館:María Manuela de Portugal
1550年代になると、 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が妻マリアを伴ってやってきます。
子どもも孫たちもフアナのことを忘れていなかったのです。
引用元:マクシミリアン2世
美術史美術館:Kaiser Maximilian II. (1527-1576) als etwa Vierzigjähriger
マクシミリアン2世はフアナの産んだフェルナンド(フェルディナンド。カール5世の弟で後の神聖ローマ皇帝)の息子で、その妻マリアはカール5世の娘です。
マクシミリアンとマリアもフアナの孫同士の結婚でした。
美術史美術館:Kaiser Ferdinand I. (1503-1564), Bildnis in ganzer Figur
美術史美術館:Infantin Maria (1528-1603), Kaiserin, Bildnis in halber Figur
子どもも孫たちもフアナのことを忘れていなかったのです。
1555年4月12日、フアナはその人生を終えました。
マルグリット・ドートリッシュとフアナの4人の子どもたち
マルグリットは、少女時代を過ごしたフランスではアンヌ・ド・ボージューを、嫁ぎ先のスペインでは姑イサベル1世の政治を間近で見ていました。
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
引用元:アンヌ・ド・ボージュー
再婚した夫とも死別し、子どももいなかったマルグリットはその後「政治家」として手腕を発揮して父を助けます。
そして、フアナとフィリップの子どものうち4人を引き取って養育し、立派に育て上げます。
長男カール(シャルル、カルロス)は祖父マクシミリアンの後を継ぎ、神聖ローマ皇帝カール5世となりました。
(次男フェルナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)は同名の祖父アラゴン王フェルナンド2世の元で養育され、末娘のカタリナは母フアナと共にトルデシリャスにいました。)
マルグリットの宮廷の文化水準は非常に高く、後のヘンリー8世妃となるアン・ブーリンも留学しています。
引用元:アン・ブーリン
ナショナル・ポートレート・ギャラリー:Anne Boleyn
ホルバインの傑作『デンマークのクリスティーナ』のモデルとなったクリスティーナもフアナの孫の一人です。
ナショナル・ギャラリー:Christina of Denmark, Duchess of Milan
クリスティーナの実母イサベルはフアナの次女で、幼い頃マルグリットのもとで養育されました。
引用元:イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)
長じてデンマーク王に嫁ぎましたが、一家が国を追われ困窮した際にはマルグリットが手を差し伸べています。
クリスティーナもマルグリットに養育されました。
マルグリットは芸術も大いに愛好しており、フランドル地方の絵画なども収集。
スペインのプラド美術館にフランドル絵画が多いのは、マルグリットや甥のカール5世の影響とされています。
ランブール兄弟の『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』を所有していたこともありました。
イングランド王ヘンリー7世
引用元:ヘンリー7世
ナショナル・ポートレート・ギャラリー:King Henry VII
かつて結婚のためにスペインから海を渡ったフアナの艦隊は途中嵐に遭い、予定外にイングランドに上陸します。
ちょうどイングランド王ヘンリー7世のところでも、息子アーサーとカトリック両王の娘カタリナ(フアナの妹)との結婚話が進んでおり、ヘンリー7世は美しいと評判になっているフアナを密かに見に行きました。
1506年、海路でフィリップと共にスペインに向かったフアナは再びイングランドに上陸し、歓迎を受けます。
イングランドの宮廷でフアナは妹カタリナと再会しました。
肖像画のヘンリー7世の首にかかる金羊毛勲章を贈ったのは、フィリップ美公です。
ヘンリー7世は他国の大使も驚くほど経済的に豊かで、フィリップ美公にも金を貸しており、フィリップとフアナが海上でスペインに向かう際の費用も出していたようです。
1503年に最愛の王妃を亡くしたヘンリー7世は一時、夫を亡くしたフアナに求婚することも検討していました。
この肖像画は「お見合い肖像画」で、同じく寡婦となったフィリップの妹マルグリット・ドートリッシュに贈られましたが返却され(つまり破談)、現在の英国のナショナル・ポートレート・ギャラリーにあります。
この時代、アラゴン王フェルナンド2世、ヘンリー7世、ローマ教皇アレクサンデル6世と好きなキャラ(?)がばんばん出てきます。
アレクサンデル6世の子ども、チェーザレ・ボルジア、ルクレツィア・ボルジアもいいですね。
始まりが政略結婚であっても、お互いに尊敬し愛し合える伴侶に恵まれた例として、フィリップとマルグリットの両親である「神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世夫妻」、ヘンリー8世の両親である「ヘンリー7世夫妻」、フアナとカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)の両親である「カトリック両王」が挙げられると思いますが、その子どもたちの組み合わせとなると今ひとつ上手く行かないようです。
しかし三組の夫婦の孫たちの代になると、また歴史上の有名人がぞろぞろ出てきます。
フィリップ美公とフアナの子どものカール5世、その子どものフェリペ2世。
ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの子どもはイングランド女王「血まみれメアリ」で、フェリペ2世と結婚します。
登場する人びとの名前が同じなので混乱しますが(-ω-)、実に興味深い時代です。
- 西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社.
- 岩根國和(著). 2015-5-10. 『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』. 中公新書.
- 『ハプスブルク家の女たち』 江村洋(著) 講談社現代新書
- 中野京子(著). 2008-8-15. 『名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語』. 光文社新書.
- ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 遠藤ゆかり(訳). 2002-9-20. 『カール5世とハプスブルク帝国』. 創元社.
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