フランスに輿入れが決まった、皇女マリー・アントワネット。彼女の肖像画を描きにやって来たフランスの画家ジョゼフ・デュクルーは大家族の女帝一家を見て、自分はどの皇女を描けばいいのか尋ねたそうです。デュクルーの自画像もどうぞご覧ください。
![マリー・アントワネット 1769年の肖像画 ジョゼフ・デュクルー ヴェルサイユ宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/336px-Marie_Antoinette_Young3.jpg)
1769年のマリー・アントワネットの肖像画
![マリー・アントワネット 1769年の肖像画 ジョゼフ・デュクルー ヴェルサイユ宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/336px-Marie_Antoinette_Young3.jpg)
引用元:マリー・アントワネット
18世紀フランスの画家ジョゼフ・デュクルーによる、14歳頃のマリー・アントワネットです。
オーストリアとフランスは、中世以来ずっと戦争状態にあり、不仲でした。
しかし、政治上の思惑から両国は接近します。
フランス王ルイ15世の最側近であり、寵姫ポンパドゥール夫人の信頼厚いショワズール公爵が両国を行き来し、フランスの王太子とオーストリアの皇女の「結婚」という結びつきにこぎつけます。
ルイ15世の孫であるルイ・オーギュストと、「女帝」マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット(マリア・アントニア)の縁組が確定したのです。
1768年11月初めのことでした。
ショワズール公爵エティエンヌ=フランソワ( Étienne-François de Choiseul, 1719年6月28日-1785年5月8日)
![ショワズール公爵エティエンヌ=フランソワ 1763年 ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー 個人蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/a2043ffd3dbe96336809dac0038f33c8.jpg)
エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵は、フランス王国の軍人であり外交官でもありました。
ポンパドゥール夫人から厚く信頼された人物で、彼女の死後も暫くは筆頭大臣の地位を保っていましたが、夫人の死後寵姫となったデュ・バリー夫人やその一派により失脚し、大臣の地位を追われます。
二国間の婚約交渉にあたったショワズール公爵は、婚約成立後、フランスの宮廷にふさわしい花嫁に仕立てあげるために、マリー・アントワネットの衣装計画の指南役を務めた。
石井美樹子(著).『マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女』.河出書房新社. p.52.
皇女マリー・アントワネットの肖像画が描かれ、ヴェルサイユ宮廷に贈られたのが1769年。
ポンパドゥール夫人は1764年に亡くなっており、平民出身のデュ・バリー夫人がルイ15世に紹介されたのも1769年でした。
![『ポンパドゥール侯爵夫人の全身像』 1749年から1755年の間 モーリス=カンタン・ド・ラトゥール ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/Pompadour6-1.jpg)
引用元:ポンパドゥール夫人
![『フローラに扮したデュ・バリー夫人』( Portrait de la comtesse Du Barry en Flore ) 1769年 フランソワ=ユベール・ドルーエ ヴェルサイユ宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/372px-Francois-Hubert_Drouais_Portrait_de_la_comtesse_Du_Barry_en_Flore_1769.jpg)
引用元:デュ・バリー夫人
皇女の外見をフランス風に変えよう
マリー・アントワネット、1762年の肖像画(7歳) ジャン=エティエンヌ・リオタール
![マリー・アントワネット、1762年の肖像画(7歳) ジャン=エティエンヌ・リオタール シェーンブルン宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/ce8496008497aba5167f8af655ce0a65.jpg)
1762年10月13日。
6歳の神童モーツァルトは、シェーンブルン宮殿のマリア・テレジアの前で演奏を披露します。
その時宮殿の床で滑って転んでしまったモーツァルトを助け起こした皇女が、このマリア・アントニアでした。
モーツァルトがマリア・アントニアに、「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話は大変有名です。
マリー・アントワネット 1762年 ジャン=エティエンヌ・リオタール
![マリー・アントワネット 1762年 ジャン=エティエンヌ・リオタール 美術・歴史博物館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/Maria_Antonia_of_Austria_1762_by_Liotard.jpg)
引用元:マリー・アントワネット
母マリア・テレジアは、娘のためにパリから服飾の専門家たちを呼び寄せます。
皇女アントワーヌの外見は大きく変わりはじめた。ラルセヌール氏という本物の美容師がパリから呼ばれて、額の生え際が処理された。外見的な特徴のなかでも、この部分はとくに重要視された — 当時は誰もが生え際を気にした — ため、これに当たる美容師は最高の腕前をもつ者が推薦された。彼を推したのはショワズール公爵の姉妹だった。
ラルセヌール氏がマダム・アントワーヌの髪に施した「シンプルで上品なスタイル」には誰もが感銘を受けた。ウィーンの若い貴婦人たちはそれまでの巻き毛をやめて、王太子妃風(ア・ラ・ドーフィーヌ)のスタイルをいっせいにまねしたという。
アントニア・フレイザー(著). 野中邦子(訳). 『マリー・アントワネット』. 早川書房. p.119.
このとき美容師ラルセヌールの他に、ダンスの教師にノヴェール、文学やフランス語の家庭教師にヴェルモン神父も派遣されてきました。
画家ジョゼフ・デュクルーもそのひとりです。
1769年、未来の王太子妃マリー・アントワネットの肖像画を描くため、デュクルーはウィーンにやってきました。
この肖像画はヴェルサイユへ贈られるものだった(到着したばかりの画家は、マリア・テレジアの家族の多さに驚いて、宮廷にいる大勢の皇女のうち、自分はどのかたを描くのかと尋ねたほどだった)。しかし、この画家は美容師ほどの成功は収めなかった。アントワーヌは五回にわたって退屈なモデルを務めたが、結果はぱっとせず、描きなおしになった。こうして1769年5月にやっと絵を送ることができた。
アントニア・フレイザー(著). 野中邦子(訳). 『マリー・アントワネット』. 早川書房. p.119.
この功績でデュクルーは宮廷画家になり、爵位を得ました。
『マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女』の著者・石井美樹子氏もこのように描写しています。
1769年2月、フランスの画家ジョゼフ・デュクルー(1735-1802)がウィーンに派遣され、マリー・アントワネットの肖像画が制作された。制作にあたって、マリー・レクザンスカ王妃の結髪師で、小柄で猿のような顔つきのラルスヌールもウィーンに派遣された。彼の手により、マリー・アントワネットのいくぶんでっぱったおでこは、フランス風のシンプルで上品なヘアスタイルで目立たなくされた。また歯医者も送られ、デコボコの歯並びが矯正された。これには3ヶ月かかり「とてもきれいでまっすぐの歯並びに」なった。さらにフランス風のお化粧を施されて、頬に丸い頬紅をつけた。こうして、オーストリア風のところはすべて取り除かれ、肖像画は4月に完成し、ヴェルサイユ宮殿に送られた。原画は失われたが、同じ年にデュクルーが制作した模写が現存する。
マリー・アントワネットは、七分袖の縁に三段の襞飾りがつき、前が大きく開き、水色のラインが入った薔薇色の絹のフランス風宮廷服をまとっている。左肘を書物の上に置き、かすかな微笑をたたえている。肌は透明感のある薔薇色。初々しく美しいフランス風の皇女が誕生した。
石井美樹子(著). 『マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女』. 河出書房新社. p.53.
この結髪師は『ローズ・ベルタン マリー=アントワネットのモード大臣』(白水社)では「ラルソヌール」と表記されています。
時には尊大とも取られることのあった顔つきだったとも言われるマリー・アントワネットですが、とにかく所作がとてもエレガントだったようです。
アントワネットの顔立ちの美しさについては意見がわかれるところだが、彼女には他の美点があった。当時にしては背が高く、やせすぎない程度にほっそりとしていて、姿がよく、均衡のとれた身体つき、要するに着映えのする容姿だった。衣装を用意する者にとっては願ってもない対象である。髪は豊かで美しいブロンド、つんとした態度、結い上げた髪や飾りものが映える頭部、プロにとっての逸材だ。
ミシェル・サポリ(著). 北浦春香(訳). 『ローズ・ベルタン マリー=アントワネットのモード大臣』. 白水社. p.22..
大家族の「女帝」一家
1755年頃の肖像画では、マリー・アントワネットは画面中央、ベビーベッドの中にいます。
![神聖ローマ皇帝フランツ・シュテファンと女帝マリア・テレジアとその家族 1754年 マルティン・ファン・マイテンス シェーンブルン宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/Maria_Theresia_im_Kreise_ihrer_Familie.jpg)
引用元:神聖ローマ皇帝フランツ・シュテファンと女帝マリア・テレジアとその家族
下は、マルティン・ファン・マイテンスによって1764年頃に描かれた、フランツ・シュテファンとマリア・テレジア夫妻、そして彼らの子供たちです。
![神聖ローマ皇帝フランツ・シュテファンと女帝マリア・テレジアとその家族 1764年 マルティン・ファン・マイテンス 美術史美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/02b00e1110609e31fc398139765b8886-1.jpg)
引用元:神聖ローマ皇帝フランツ・シュテファンと女帝マリア・テレジアとその家族
マリー・アントワネットは左から5番目にいます。 一番末の皇女様ですね。
『皇帝一家のサンタクロースの贈り物』 マリア・クリスティーネ 1763年頃
![『皇帝一家のサンタクロースの贈り物』 1763年頃 マリア・クリスティーネ シェーンブルン宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/a305dcecfc1ab0f54e65ed93c8a30841.jpg)
この絵を描いたのは、マリー・アントワネットの姉マリア・クリスティーネ。
マリア・クリスティーネ本人は左端に立ち、幼いアントワネットは姉と母マリア・テレジアの間で、クリスマスプレゼントの人形を持って立っています。
後にフランス王妃となったアントワネットは、フランスを訪問したマリア・クリスティーネに対して冷淡な態度を取っています。
しかし、このクリスマスの朝を迎えた女帝と皇帝の一家からは、家庭的で親密な雰囲気が伝わってくるようです。
宮廷肖像画家ジョゼフ・デュクルー( Joseph Ducreux, 1735年6月26日-1802年7月24日)の作品
デュクルーの自画像
![あくび中(1783年までに描かれたもの ジョゼフ・デュクルー ゲッティセンター蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/31d8c24034802cf42f22f01be3b7e04f.jpg)
引用元:あくび中
![『沈黙(自画像)』 1790年代 ジョゼフ・デュクルー スウェーデン国立美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/372px-Self-portrait_entitled_The_Silence_by_Joseph_Ducreux_Nationalmuseum_Stockholm.jpg)
引用元:『沈黙(自画像)』
![『恐怖で驚く(自画像)』 1790年代 ジョゼフ・デュクルー スウェーデン国立美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/470px-Self-portrait_entitled_The_Surprise_in_Terror_by_Joseph_Ducreux.jpg)
引用元:『恐怖で驚く(自画像)』
![『自画像』 1791年頃 ジョゼフ・デュクルー フランス革命博物館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/64897b4bf1d0a06b6cac3dfb1e916f83.jpg)
引用元:『自画像』
ルーヴル美術館:Portrait de l’artiste sous les traits d’un moqueur.
デュクルーの師モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール( Maurice Quentin de La Tour, 1704年9月5日-1788年2月17日)
![パステルによる自画像 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール 1751年 ピカルディー美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/388px-Autoportrait_de_La_Tour.jpg)
優美なパステル画で知られるモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールは、デュクルーの師です。
フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の肖像画も有名ですね。
![『ポンパドゥール侯爵夫人の全身像』 1749年から1755年の間 モーリス=カンタン・ド・ラトゥール ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/Pompadour6-1.jpg)
引用元:ポンパドゥール夫人
才色兼備の、ポンパドゥール夫人(ジャンヌ=アントワネット・ポワソン( Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour, 1721年12月29日-1764年4月15日)は、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータ女帝と組み、プロイセンのフリードリヒ大王を追い詰めようとします。
![ルイ15世(1710年2月15日-1774年5月10日)の肖像 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール 1748年 ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/400px-Louis_XV_by_Maurice-Quentin_de_La_Tour-1.jpg)
引用元:ルイ15世
「最愛王」とも呼ばれる、美男のフランス国王ルイ15世。
26歳のデュ・バリーを公式寵姫にした時、王はもうすぐ60歳、彼女の若さと美によって老いを食い止めようとしたのだろう。すでに「こよなく愛される王」ならぬ、「こよなく無差別に若い女を愛する王」と成り果てており、宮廷人からの尊敬も民衆の人気も地に落ちていた。
息子は先に死に、孫(後のルイ16世)が王位継承者だったが、その嫁候補アントワネットを品定めして帰ってきた大使に向かい、真っ先に「胸は大きかったか?」と訊ねたという。
中野京子(著). 『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』. 光文社新書. p.126.
確かに、デュ・バリー夫人は豊かなバストの持ち主でした。
しかしマリー・アントワネットはデュクルーの絵が描かれたときで14歳。
成熟した大人の女性になるにはもう少し間がありますよね。
下の、教科書でよく見る顔は、フランスで活躍し、人々に多大な影響を与えた哲学者ルソーです。
![ジャン=ジャック・ルソー 18世紀 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール Musée Antoine-Lécuyer蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/345px-Jean-Jacques_Rousseau_painted_portrait.jpg)
引用元:ジャン=ジャック・ルソー
ジャン=バティスト・グルーズ( Jean-Baptiste Greuze, 1725年8月21日-1805年3月4日)にも学ぶ
デュクルーは当時の人気画家ジャン=バティスト・グルーズからも油絵の技法をびました。
![ジャン=バティスト・グルーズ自画像 1769年頃 ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/476px-Jean-Baptiste_Greuze_Self_PortraitFXD.jpg)
![『壊れた甕』 1771年 ジャン=バティスト・グルーズ ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/384px-Jean-Baptiste_Greuze_001.jpg)
引用元:『壊れた甕』
このモデルは画家の妻とのこと。
少女のはだけた胸や割れた甕などが少女の「純潔の喪失」を意味していると言われます。
デュクルーによるフランス王家の人々の肖像画
デュクルーは、ルイ16世の妹たちやマリア・テレジアの肖像画を手掛けています。
![ルイ16世の妹マダム・エリザベートの子供の頃(1768年) ジョゼフ・デュクルー](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/371px-Madame_Elisabeth_Joseph_Ducreux.png)
引用元:マダム・エリザベート
![ルイ16世の妹マダム・クロティルド 1768年頃と1769年頃の間 ジョゼフ・デュクルー ヴェルサイユ宮殿](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/387px-Ducreux_-_Marie_Clotilde_of_France_-_Versailles_MV_3902.png)
引用元:マダム・クロティルド
![タンプル塔に幽閉中のルイ16世(1792年12月から1793年1月の間) ジョゼフ・デュクルー カルナヴァレ美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/358px-Louis_XVI_1754-1793_M-1.jpg)
引用元:タンプル塔に幽閉中のルイ16世
1789年フランス革命が起こり、ルイ16世は1793年に、王女エリザベートは1794年に処刑されます。
デュクルーは一時ロンドンに亡命。
後に新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッド(ドミニク・アングルの師)の手助けで帰国し、画業に復帰しました。
![『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 1805年-1807年 J.L.ダヴィッド ルーヴル美術館蔵](https://hannaandart.com/wp-content/uploads/Jacques-Louis_David_-_The_Coronation_of_Napoleon_1805-1807.jpg)
引用元:『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』
- 『マリー・アントワネット』 アントニア・フレイザー(著) 野中邦子(訳) 早川書房
- 『マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女』 石井美樹子(著) 河出書房新社
- 『ローズ・ベルタン マリー=アントワネットのモード大臣』(ミシェル・サポリ(著) 北浦春香(訳) 白水社
- 『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』 中野京子(著) 光文社新書
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