ローマにあるボルケーゼ美術館には、名門ボルケーゼ一族のひとり、シピオーネ・ボルケーゼが集めた数々のコレクションが収められています。その代表的な絵画と、ベルニーニの彫刻を中心に観て回ります。
枢機卿 シピオーネ・ボルゲーゼ( Scipione Borghese, 1577年9月1日 – 1633年10月2日)
シピオーネ・ボルゲーゼの胸像
引用元:シピオーネ・ボルゲーゼ Daderot CC-Zero
シピオーネ・ボルゲーゼ(スピキオーネ・ボルケーゼとも表記)は、当時のローマ教皇パウルス5世の甥です。
上はベルニーニの作品。
下の胸像はベルニーニの弟子、ジュリアーノ・フィネッリ( Giuliano Finelli, 1601年 – 1653年)の作品です。
引用元:枢機卿シピオーネ・ボルケーゼ メトロポリタン美術館 CC-Zero
Cardinal Scipione Borghese (1577–1633) メトロポリタン美術館
教皇 パウルス5世( Pope Paul V, 1552年9月17日 – 1621年1月28日)
引用元:教皇パウル5世
ゲティ・センター引用元:教皇パウルス5世胸像 Sailko CC-BY-3.0
大理石でもブロンズ製でもカッコいいですね。上下ともベルニーニの作品です。
パウルス5世は非常に背が高く、腕と脚は長く優美。 肌の色は白っぽい黄色、目は淡い青だったそうです。
顔つきはまじめで穏やかで、そこに威厳と魅力と快活さと厳しさが混在している。
アノン『パウルス5世の生涯』
P.G.マックスウェル-スチュアート(著). 高橋正男(監修). 『ローマ教皇歴代誌』. p.240.
ローマ教皇 パウルス5世(在位:1605年 – 1621年)は、シエナの名門貴族ボルゲーゼ家の出身で、本名はカミッロ・ボルゲーゼ( Camillo Borghese )と言います。
世界史で言えば、イングランド王ジェームズ1世と交渉したり、ガリレオ・ガリレイとも対面したりしていますが、芸術方面ではローマに大きな貢献をしています。
彼はローマ皇帝トラヤヌスの水道を修復し(「アクア・パオラ」という名に変えた)、サン・ピエトロ大聖堂の身廊や正面(フアサード)などを完成させた。またカロロ・ポロメオを聖者に列し、イグナティウス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、フィリッポ・ネリ、アビラのテレサを列福(死者を天福を受けた者の列に加えるという意味で、聖者への大きなステップとなる❝福者❞の尊称を授けること)した。
P.G.マックスウェル-スチュアート(著). 高橋正男(監修). 『ローマ教皇歴代誌』. p.241.
1615年には、慶長遣欧使節の支倉常長らがパウルス5世に謁見しています。
ヴィラ・ボルケーゼ( Villa Borghese )
引用元:ボルケーゼ美術館 Alessio Damato CC-BY-SA-3.0-migrated CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0
ローマ教皇の甥であるシピオーネが、古代ローマ皇帝にならってつくった広大な別荘地。
バロック様式と新古典様式をあわせもつヴィラ・ボルケーゼは夏の別荘として造られました。
「美に取り憑かれた枢機卿」シピオーネはここに素晴らしいコレクションを築き上げます。
当時、ヴィラ・ボルケーゼはローマ教皇庁の私的迎賓館の役割も担っており、社交好きなシピオーネは、名画や古代彫刻にとりかこまれた贅を尽くした宴会を開いて、教皇をはじめとする貴賓たちを日夜もてなしていました。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.93.
ボルゲーゼ美術館のコレクション
『狩りをする女神ディアナ』 1617年 ドメニキーノ
引用元:『狩りをする女神ディアナ』
こちらに視線を向けている手前のニンフがまたコケティッシュではありませんか。 この表情がたまりませんね。
シピオーネもこの絵を気に入り、アトリエにあった時から目をつけていたそうです。
シピオーネは、何度もドメニキーノに譲ってくれるようかけあったとのことですが、この絵は元々アルドブランディーニ枢機卿の注文を受けて描いていたもの。
ドメニキーノが首を縦に振らなかったため、シピオーネは兵を差し向け、絵を強奪してしまいます。
その際、ドメニキーノは3日間牢に閉じ込められました。
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『キリストの埋葬』 1507年 ラファエロ・サンツィオ
引用元:『キリストの埋葬』
1507年、フィレンツェで、ラファエロはアタランタ・バリオーニという貴婦人の依頼を受け、『キリストの埋葬』を完成させました。
デッサンも多く残っていて、とても熱心に研究、苦心したことがわかります。
この死せるキリストを中心とする群像画は、ペルージャの内紛で息子を殺されたペルージャ君主の一族アタランタ・バリオーニ夫人からの依頼で描かれたもので、登場人物の多くは関係者の肖像画になっている。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.79.
絵はペルージャのバリオーニ大聖堂に飾られていましたが、シピオーネは手の者に命じて夜陰に紛れこの絵を盗み出しました。
ペルージャ側から絵の返還要求が出されますが、最終的に、シピオーネに宛てた「この絵を永久にお譲りします」との手紙がヴァチカンの古文書館に残っています。
これには伯父のパウルス5世の力が働いたと言われています。(参考:『NHK世界の果実界美術館紀行 3』)
『一角獣と貴婦人』 1505年頃 ラファエロ・サンツィオ
引用元:『一角獣と貴婦人』
獰猛な一角獣ですが、純潔である処女にのみ従順であることから「純潔」の象徴とされます。
この『一角獣と貴婦人』のように貴婦人の肖像画に描き入れられ、モデルの女性の純潔を表しています。
一角獣を抱くのは、ジュリア・ファルネーゼ( Giulia Farnese, 1474年 – 1524年3月23日)といわれています。
ジュリアは 悪名高いローマ教皇 アレクサンデル6世の愛人で、一時期アレクサンデル6世の娘 ルクレツィア・ボルジアとも同居していました。
また、ジュリアは『狩をする女神ディアナ』のドメニキーノが描いた『処女と一角獣』(1602年)のモデルとされています。
引用元:『一角獣と貴婦人』
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『メリッサ』 1523年頃 ドッソ・ドッシ
引用元:『メリッサ』
ドッソ・ドッシは、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステ(ルクレツィア・ボルジアの夫)、エルコレ2世・デステ(アルフォンソとルクレツィアの息子)に仕えました。
ドッシの絵の女性は、その持ち物(アトリビュート)から「キルケ」と思われていたようです。
キルケとは、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する魔女で、男を動物に変えてしまう力を持っています。
そのため、絵画に描かれる時は動物(元人間)を従えていることが多く、時に「持ち物」として、魔法の杖や毒杯を持っています。
『【名画】絶世の美女 魔性』(新人物往来社)では、この絵はキルケではなく、「逆に魔法を解いて人間に戻す良き魔女のメリッサだと言われている」とあります。
『アポロンとダフネ』 1522年頃 ドッソ・ドッシ
引用元:『アポロンとダフネ』
後述するベルニーニの作品と同じお題、神話画『アポロンとダフネ』。
アルフォンソ1世・デステによる注文のようですが、アポロンは詩の神、音楽の神でもあります。
よく竪琴を持っていたりしますよね。
このアポロンが持つのはヴァイオリンで、ヴァイオリンはアルフォンソ1世の得意な楽器でした。
アルフォンソの妻 ルクレツィア・ボルジアは、教皇アレクサンデル6世の娘です。
2008年11月、オーストラリアのヴィクトリア国立美術館が、ドッソ・ドッシによる黒衣の女性の絵が、「ルクレツィア・ボルジアの肖像画である」と発表しています。
引用元:ルクレツィア・ボルジアの肖像
ルクレツィアは、父の愛人 ジュリア・ファルネーゼと仲が良く、一時同居もしていました。
『聖母子』 1510年頃 ジョバンニ・ベッリーニ
引用元:『聖母子』
15世紀ヴェネツィア派最大の巨匠、ベッリーニは、ルネサンスの名花と賞賛されるイザベラ・デステなど、エステ家の人々と関わりが深く、1514年に古代の神話に題材を取った『神々の饗宴』を描きました。
『神々の饗宴』は、イザベラの弟アルフォンソ1世とルクレツィアの結婚記念画とされ、後年同じヴェネツィア派のティツイアーノによって加筆されています。
引用元:『神々の饗宴』
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『ダナエ』 1530年頃 コレッジョ
引用元:『ダナエ』
イタリアの画家コレッジョは、塔内のダナエとキューピッドを描いています。
キューピッドがいることで、まもなくやって来るゼウスとダナエの愛の交歓を想像させます。
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『ヴィーナスと蜂の巣を持つキューピッド』 1531年 ルーカス・クラナッハ(父)
北方ヨーロッパのルネサンスの巨匠、クラナッハ(クラナーハとも表記)の、妖しい魅力のヴィーナスです。
この絵とほぼ同じ構図の絵がベルギーのブリュッセルにあり、その解説が『「世界の名画」謎解きガイド 迷宮篇』(PHP文庫)に掲載されています。 下は『性愛の西洋美術史』からの引用です。
薄いヴェールや装飾付きの帽子、宝石やネックレスで身を飾ったヴィーナスと、蜂蜜を盗み、ミツバチに刺されるキューピッドが描かれている。快楽には苦しみが紛れており、味わうには苦い経験をともなうという戒めが含まれている。
海野弘・平松洋(監修). 『性愛の西洋美術史』. 洋泉社. p.43.
クラナッハによる歴代のザクセン選帝侯たちの姿と、アン・オブ・クレーヴズの姉ジュビレ
アン・オブ・クレーヴズの姉 ザクセン選帝侯妃ジビュレの肖像画
『聖愛と俗愛』 1514年 ティツィアーノ・ヴェチェリオ
引用元:『聖愛と俗愛』
白いドレスの女性は「地上のヴィーナス」を、裸の女性は「天上のヴィーナス」を表す寓意画です。 モデルはティツィアーノの恋人かもしれません。
衣裳は「虚飾」を表しているとも取れ、向かって右の女性が「天上のヴィーナス」とされるのは、生まれたばかりのヴィーナスは裸だったから。
神は超越的な存在です。
ティツィアーノの《聖愛と俗愛》が、図象学上の意味はどうであれ、まず造形的にひとりの女性の二重肖像であるということは、たしかにその通りであろう。
高階秀爾(著). 『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』. 中公文庫. p.87.
ふたりの女性をはじめとして、この画面に登場するさまざまのモティーフは、いずれ多くの点でこの時代に共通の言葉を語っているからである。では、恋人の肖像画という以外に、謎めいたこの画面はいったい何を物語っているのだろうか。
一見して明らかなことは、どちらが「聖」であり「俗」であるにせよ、画面の主役であるふたりの女性が、まったく双生児のようなその相貌の類似にもかかわらず(あるいはおそらくその故に)、できるかぎり対照的に描き出されていることである。 ただ正面と横顔という対照だけでなく、そのポーズも、裸婦の方は両手を拡げ、特に片方の手を大きく天に差しのべているのに対し、着衣の女性は両腕がほとんどひとつの環を形づくるように置かれている。つまり、裸婦の方がいわば「開かれた」ポーズを示しているのに対し、着衣像の方は「閉ざされた」ポーズを見せているのである。
高階秀爾(著). 『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』. 中公文庫. p.87.
向かって右の女性の持つ「開かれた」器、「開かれた」空間に対し、左の女性の「閉ざされた」器、空間。
着衣の女性は顔以外の肌を見せず、手袋までしています。 頭には「ミルラの花飾り」まで。
共通項としては、ふたりの女性がとてもよく似ているということ、手に金属製の容器を持っていること、それぞれの背景には建物があり、馬に乗った人物やウサギがいること。(参考:『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』)
当然画家はこれらのことを意図して描いたのですが、
この画面の謎を解くために、多くの学者たちがまず注目したのは、ふたりの女性たちのちょうど中間の前景部分に生えていて、石の泉の浮彫りを一部覆い隠しているバラの樹である。バラの花は泉水の石の縁にも置かれているし、着衣の女性の手にも握られている。特に、その着衣の女性の左手のすぐ傍ら、石の上に置かれた赤いバラの花は、ボッティチェルリ《ヴィーナスの誕生》の海の上に舞うバラの花を思わせる。
高階秀爾(著). 『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』. 中公文庫. p.89.
バラの花、ウサギはヴィーナスの「持ち物」です。
まだ本当の「愛」を知らない無垢な女性が、天上の愛を知っていくプロセス?
ご興味のある方は是非『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』をお読みください。 面白いですよ。
『キューピッドに目隠しをするヴィーナス』 1565年頃 ティツィアーノ・ヴェチェリオ
恋は盲目と申します。
ボッティチェリの「春」で矢を放つキューピッドはわざと目隠しをして「盲目」状態にあるが、イコノロジー(図象解釈学)によれば、このキューピッドは肉体ではなく「心眼」で見ており、精神的愛を主張した15世紀フィレンツェのプラトン主義哲学の反映となる。しかし16世紀のティツィアーノの絵のヴィーナスは、息子に目隠しをしてよいのか表情が曖昧である。
井出洋一郎(著). 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』. 中経の文庫. p.77.
『スザンナと長老たち』 1655年 ヘリット・ファン・ホントホルスト
引用元:『スザンナと長老たち』 Sailko CC-BY-3.0
オランダのユトレヒト出身の画家、ヘリット・ファン・ホントホルストによる『スザンナと長老たち』です。
カラヴァッジオの明暗法を習得し、若き日のレンブラントにも影響を与えました。
「ダニエル書」のなかで、スザンナというヘブライ人の人妻が水浴を終えたところに、2人の好色な長老たちがやってきます。
そして関係を迫り、「もし拒否すれば、お前が庭で青年と密会していたと告発するぞ」と彼女を脅し、拒否したスザンナはあわや死罪に…というお話で、水浴するスザンナという、女性の裸体を描く絶好の口実にもなりました。
ホントホルストの作品について、『誘う絵』から引用します。
左方向から差し込む光によって、スザンナの美しい裸体が映し出される一方で、長老たちの顔は暗く陰影を作り、その淫欲に呆けた狂気の表情を強調しています。
平松洋(著). 『誘う絵』. ビジュアルだいわ文庫. p.222.
ホントホルストほか、アイエツの『水浴のスザンナ』
フランチェスコ・アイエツの『水浴のスザンナ』とドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』
ホントホルストによる王家の肖像画
チャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの肖像(ボストン美術館)
『スザンナと長老たち』 1607年 ルーベンス
引用元:『スザンナと長老たち』
後出のベルニーニの彫刻のインスピレーションとなった、ルーベンスの作品。
主題は『水浴のスザンナ』。
『ユピテルとユーノー』 1612年頃 アントニオ・カラッチ
引用元:『ユピテルとユーノー』 Sailko CC-BY-3.0
ローマ神話の主神ユピテル(ユーピテル、ジュピター Jupiter)と、その妻ユーノー(ユノ、ジュノー Juno)の床入りの場面です。
ユピテルはギリシア神話ではゼウス、ユーノーはヘラ。
画面左上隅で稲妻が空中のキューピッドに握られているはないか。室内では浮気者のゼウスがヘラをベッドに迎えているところから、キューピッドに稲妻を盗ませたのは夫の愛を取り戻したいヘラの陰謀であったことがわかる。
井出洋一郎(著). 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』. 中経の文庫. p.27.
「勝った」とでも言いたげなユーノーの表情が良いですね。
本作は、画家カラッチ一族のひとり、アントニオ・カラッチの作品です。
下は元ネタ。
引用元:アンニーバレ・カラッチの『Loves of the Gods』より『ユピテルとユーノー』
アントニオの叔父で、バロックを代表する画家 アンニーバレ・カラッチによる、パラッツォ・ファルネーゼのフレスコ画。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ( Michelangelo Merisi da Caravaggio, 1571年9月28日 – 1610年7月18日)
『洗礼者ヨハネ』 1609年 – 1610年頃 カラヴァッジョ
引用元:『洗礼者ヨハネ』
どこか放心した表情をしている。また、洗礼者ヨハネの本来のアトリビュートである十字の杖はただの杖となっている。
海野弘・平松洋(監修). 『性愛の西洋美術史』. 洋泉社. p.54.
カラヴァッジョは、本名をミケランジェロ・メリージといい、カラヴァッジョ村の出身です。
喧嘩、殺人、逃亡と波乱に満ちた人生を駆け抜けました。
1592年、ほとんど無一文でローマに出て来たカラヴァッジョは職を転々としていました。
画家仲間のところに転がり込んで、頭部や半身像などを描いては、それを食事代にしていたが、カラヴァッジオのこれらの作品は、ローマに新しいスタイルの絵画をもたらすきっかけとなった。画家カヴァリエ―レ・ダルビーノ(本名ジュゼッペ・チェーザリ)のところで助手をしたのもこのころで、そこに残されたカラヴァッジオの絵画がのちにシピオーネ・ボルケーゼ枢機卿に巻き上げられたことは、すでにふれたとおりである。
《果物籠を持つ少年》(1593-94年 ボルケーゼ美術館)、《病めるバッカス》(1593-94年 ボルケーゼ美術館)などの作品だ。この時代の《病めるバッカス》や《トカゲに噛まれた少年》(1594年頃、ロンギ・コレクション)といった作品は、モデルが雇えないために、自分の顔を鏡に映して描いたものだと言われている。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.124.
『果物籠を持つ少年』 1593年頃 カラヴァッジョ
引用元:『果物籠を持つ少年』
『病めるバッカス』 1593年頃 カラヴァッジョ
引用元:『病めるバッカス』
『蛇の聖母』 1605年 – 1606年 カラヴァッジョ
引用元:『蛇の聖母』
聖母のモデルは『ロレートの聖母』(1603年 – 1606年 サンタゴスティーノ聖堂)と同じ、カラヴァッジョの情婦 レーナとの説があります。
教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会からの依頼なのに、肝心な聖アンナを醜い老婆、聖母を同時代の巨乳の娼婦、イエス様を素っ裸の悪ガキに描いて、受け取り拒否。これを引き取ったボルケーゼ枢機卿は以後、カラヴァッジョのパトロンとなり、トラブルや犯罪を揉み消すなど甘やかしまくります。
山田五郎(著). 『知識ゼロからの西洋絵画 困った巨匠たち対決』. 幻冬舎. p.62.
『ダヴィデとゴリアテ』 1610年頃 カラヴァッジョ
引用元:『ダヴィデとゴリアテ』
教皇の恩赦を得ようとシチリアからナポリに戻った頃の作品。旧約聖書の英雄ダヴィデに斬られた巨人ゴリアテの首は、最後の自画像ともいわれています。死すべき運命を覚悟したのか、単に同情を買おうとしたのか。自らの生首をあえて描いた真意は不明です。
山田五郎(著). 『知識ゼロからの西洋絵画 困った巨匠たち対決』. 幻冬舎. p.67.
アンニーバレ・カラッチとカラヴァッジョ、夢のコラボ
カラヴァッジョとカラッチのコラボ『聖母被昇天』『聖ペテロの磔刑』『聖パウロの回心』
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ( Gian Lorenzo Bernini, 1598年12月7日 – 1680年11月28日)
自画像 1623年頃 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
引用元:ベルニーニ自画像
ベルニーニの父で彫刻家のピエトロは、1605年頃、「同郷」の教皇 パウルス5世に招かれ、一家でローマにやってきます。
そこでパウルス5世の甥 シピオーネは、少年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが天才であることを見抜き、伯父の教皇と共にこの少年が「現代のミケランジェロ」になることを期待します。
彼はカラヴァッジョの次の世代にあたり、バロック期のイタリアにおいて建築と彫刻の世界に長年君臨しました。今でも、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の内部装飾や列柱広場、ナヴォーナ広場やいくつもある噴水など、ベルニーニの作品に当たらないようにローマを歩くことは困難なほどです。
池上英洋(著). 『西洋美術史入門』. ちくまプリマ―新書. p.13.
『プロセルピナの略奪』 1621年 – 1622年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
引用元:プロセルピナの略奪 Alvesgaspar CC-BY-SA-4.0
花を摘んでいたプロセルピナ(ペルセフォネ)が、地底から現れたハデスにさらわれ、冥界に連れ去られる場面です。
これ、大理石ですよ!? なのに、この柔らかな、弾力を感じる肌の質感!!!
食い込む指、反りかえる足指、波打つ髪、頬を伝う涙。 大理石でできているなんて、信じられません。
引用元:プロセルピナの略奪
『アポロンとダフネ』(『アポロとダフネ』) 1622年 – 1625年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
引用元:『アポロンとダフネ』 Daderot
古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』をテーマにしたこの彫刻は、当時たいへんな評判となったという。太陽神アポロの愛を拒んだダフネが神々の助けを借りて月桂樹の木に姿を変える、変身の瞬間。ダフネの手は木の枝に変わり、足の指先からは根が生えている。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.107.
引用元:『アポロンとダフネ』 Alvesgaspar CC-BY-SA-4.0
引用元:『アポロンとダフネ』 Tamlynavery CC-BY-SA-4.0
彫刻の後ろにあるのは、ドッソ・ドッシの『アポロンとダフネ』ですね(^^)。
ベルニーニは『アポロンとダフネ』『プロセルピナの略奪』『ダヴィデ』をシピオーネのために制作しましたが(他にもあります)、なんと彼は当時まだ20代なんですよ!!
『ダヴィデ』 1623年 – 1624年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
引用元:『ダヴィデ』 Galleria Borghese CC-BY-SA-4.0
旧約聖書の英雄ダヴィデが、巨人ゴリアテを討とうとする一瞬。強烈な意志を感じさせるダヴィデの表情は、ベルニーニが自らの顔を写して刻んだものといわれる。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.108.
下はローマにあるベルリーニによる絵画作品です。
引用元:『ダヴィデ』
パウルス5世、グレゴリウス15世が死去し、マッフェオ・バルベリーニがローマ教皇となります。
引用元:ウルバヌス8世の肖像
ウルバヌス8世(在位:1623年8月6日 – 1644年7月29日)です。
幸運なことに、バルベリーニは、ベルニーニの父と同じフィレンツェ人でした。
ベルニーニの父 ピエトロは、このバルベリーニの依頼で、サン・タンドレア・デッラ・ヴァッレの礼拝堂の仕事をしていました。
バルベリーニ(ウルバヌス8世)は、
無類の芸術愛好家で詩人でもあり、若いベルニーニの才能にも注目していたのである。同時に、シピオーネ・ボルケーゼは、このウルバヌス8世の誕生に一役買っていたために、中枢に生き残ったのであった。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.119.
シピオーネ、しぶとい。
引用元:『教皇ウルバヌス8世の胸像』 Livioandronico2013 CC-BY-SA-4.0
現在「国立古典絵画館」として使われているパラッツォ・バルベリーニ(バルベリーニ宮)は、このウルバヌス8世の命で建てられました。
ベルニーニのその他の作品
ルイ14世の胸像 1665年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ヴェルサイユ宮殿
引用元:ルイ14世の胸像 George CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0
大理石がたなびいています!!
ルイ14世の浣腸の話
『聖テレサの法悦』(『法悦の聖テレサ』) 1647年 – 1652年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ サンタ・マリア・デラ・ヴィットーリア聖堂
引用元:『聖テレサの法悦』 sailko CC-BY-SA-3.0-migrated CC-BY-2.5
これも大理石!!!
聖女テレサ(テレジア)の、「神の愛に触れた」神秘体験を主題にしています。聖女の恍惚の表情が官能的で、見事。
この作品の全体像も荘厳なバロックらしく、非常にドラマティックです。
引用元:『聖テレサの法悦』Benjamín Núñez González CC-BY-SA-4.0
舟の噴水(ローマ市内、スペイン広場)
引用元:舟の噴水 Lalupa CC-BY-SA-3.0-migrated
『眠れるヘルマプロディートス』 (『ボルケーゼのヘルマプロディートス』)のマットレス 1619年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ルーヴル美術館蔵
引用元:『眠れるヘルマフロディトゥス』 Pierre-Yves Beaudouin CC-BY-SA-3.0
1619年にベルニーニが制作したのは、このマットレス部分です。
彫刻自体はローマ時代に模刻されたもので、1608年にローマで発見されました。
同じポーズのものが他の美術館にも収蔵されています。
1608年にローマで発見されたこの彫刻のために、ボルケーゼ枢機卿はマットレスの制作をベルニーニに命じた。かくして紀元前2世紀(のローマンコピー)と17世紀の合作という珍しい彫刻作品が誕生した。煽情的な寝姿を見せるヘルマフロディトゥスは、実はアフロディーテの美しい息子。彼に恋するニンフに体を結合され、女性の体つきになったのだ。それが証拠に、ヘレニズム期らしい官能的な腰つきの向こうには、男性の象徴がしっかりと表現されている。
大友義博(監修). 『一生に一度は見たい ルーヴル美術館BEST100』. TJMOOK宝島社.
引用元:ヘルマフロディトゥス Marie-Lan Nguyen
引用元:ヘルマフロディトゥス Marie-Lan Nguyen
ヘルマフロディトゥス(ヘルマプロディトゥスとも表記)は、ヘルメスとアフロディーテの息子で、男女神の混合名です。
彼に恋したニンフのサルマキスに強姦され(合体し)てしまったため、乳房と陰茎が付いています。
この彫刻のタイトルですが、『眠れるヘルマフロディトゥス』、別名『ボルケーゼのヘルマフロディトゥス』といいます。
以前あった日本語版(『この作品の近代史』の項)から一部引用します。
この作品の近代史
1608年ローマのディオクレティアヌスの浴場付近にて発見されたこの彫刻は、17世紀から18世紀のボルゲーゼ・コレクションのなかでも最も感銘を与えた傑作のうちに数えられる。1619年スキピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、バロック時代のイタリア人彫刻家ベルニーニに古代の彫像を寝かせるためのマットレスの制作を依頼した。同じ年にダヴィッド・ラリクは、ヘルマフロディトス自体の修復を手がけた。この作品は、1807年ナポレオンが彼の義理の兄弟に当たる、カミロ・ボルゲーゼ公から一連のボルゲーゼ・コレクションを購入した後、ルーヴル美術館に収集された。ルーヴル美術館のヘルマフロディトスは、最も有名であったが、他の3体の古代の複製彫刻がこの作品と比較される事もあった。ルーヴル美術館に保管してあるヴェッレトリのヘルマフロディトス、フィレンツェ、ウフィツィ美術館のもの、そして未だにローマのボルゲーゼのヴィラに保管してあるものがそれに当たる。
(ルーヴル美術館の『眠れるヘルマフロディトゥス』の解説より)
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シュリー翼に展示されている旧ボルケーゼ・コレクション
ボルケーゼ・コレクションの有名古代彫像(ルーヴル美術館シュリー翼)
アントニオ・カノーヴァ( Antonio Canova, 1757年11月1日 – 1822年10月13日)
アントニオ・カノーヴァは、新古典主義を代表するイタリアの彫刻家。
ルーヴル美術館の『アモールとプシュケ』が有名です。
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神話のクライマックス場面『アモールのキスで目覚めるプシュケ』(カノーヴァ作)
『勝利のヴィーナスとしてのパオリーナ・ボルケーゼ』 1804年 – 1808年 アントニオ・カノーヴァ ボルケーゼ美術館蔵
パオリーナ・ボルケーゼ( Paolina Borghese, 1780年10月20日 – 1825年6月9日)
この作品のモデルは、パオリーナ・ボルケーゼと言います。
パオリーナの結婚前の姓はボナパルト。
あの皇帝 ナポレオン・ボナパルトの妹、ポーリーヌ・ボナパルト( Pauline Bonaparte )です。
パオリーナ・ボルケーゼの本名はポーリーヌ・ボナパルト
最初の夫の死後、ナポレオンは彼女を(『眠れるヘルマフロディトゥス』の項で名前が出てきた)カミッロ・ボルゲーゼ侯爵と結婚させます。
しかし、夫妻は気が合わず、別居。
パオリーナは他の男性と浮名を流します。
夫妻の間に子供はいませんでした。
パオリーナは兄のナポレオンとは仲が良かったそうですが、
妹の奔放なふるまいに兄は何度も頭を悩まされている。その奔放さを証明するかのように、パオリーナは自信たっぷりに自らヌード・モデルをつとめている。
池上英洋(著). 『官能美術史 ヌードが語る名画の謎』. 筑摩書房. p.49.
小さいですが、『西洋美術入門 絵画の見かた』(新星出版社)にも掲載されています。
なまめかしい、リアルな背面もどうぞ。
引用元:パオリーナ・ボルケーゼ(背面) Sailko CC-BY-3.0
19世紀初め、ナポレオン・ボナパルトは、経済的に困窮していたボルゲーゼ家から、多くの美術品をフランスに持ち出します。
ボルケーゼのアレス像、ボルケーゼのヘルマフロディトゥス像などの名品がルーヴル美術館に移されました。
パオリーナは彫刻としてボルケーゼ・コレクションに残り、ボルケーゼのヘルマフロディトゥスはフランスに渡ったのですね。
彫刻家 アントニオ・カノーヴァは、ナポレオンによってフランスに持ち出された美術品の返還に力を尽くしました。
ボルケーゼ美術館のコレクションはどれも素晴らしいものばかりですが、収蔵品だけでなく、美術にはあまり詳しくないという方でも、どれかしら見たことがお有りなのではないでしょうか。
また、なかには私と同じ様に、「あれ、キリスト教の、カトリックの聖職者なのに、ずいぶん色っぽいものを好んで集めたな」と思われた方もいらっしゃるのではないかと思います。
「しかも、古代ギリシアや古代ローマの神々って。異教じゃん」と。
シピオーネ・ボルケーゼ枢機卿が築いたコレクションについて、
シピオーネが好んで集め、また制作させた美術品の多くは官能的なもので、聖職者の実でありながら、彼は古代のポルノグラフィの一大コレクションまで所蔵していたこともわかっている。
しかし、考えてみれば、教皇庁がキリスト教のもっとも大きなものだというような、われわれの概念が間違っている。ルネサンスの時代の教皇は、イタリア中部に広大な領土をもつ一国の王であるのと同時に、宗教的にはヨーロッパ中を支配する帝王であった。したがって、教皇庁は王の宮殿だったのである。王である教皇を選出する資格をもつ枢機卿とは、古代ローマ帝国にたとえれば元老院議員のようなものであったと考えていいのだろう。聖職者である前に権力者であり、一握りの超富裕階級であった。職務としての聖職さえ果たしていれば、個人としては異教的な詩をつくろうが好色だろうが一向にかまわなかったのである。
NHK「世界美術館紀行」取材班編. 『NHK世界美術館紀行 3』. NHK出版. p.114.
この後、「ヴァチカン宮殿は、王としての教皇の宮殿」という言葉が出てきます。
寺院や教会には神の愛に溢れた宗教画。
しかし、個人の邸宅では、古代ギリシア神話や古代ローマ神話に登場する神々の絵や彫刻を、自由に愛したのです。
ヨーロッパ人の根底には常に古代ギリシアやローマに対する思慕がある、と私などは思っていますが、いかがでしょうか。
- 『ローマ教皇歴代誌』 P.G.マックスウェル-スチュアート(著) 高橋正男(監修)
- 『NHK世界の美術館紀行 3』 NHK「世界美術館紀行」取材班編 NHK出版
- 『名画の謎を解き明かすアトリビュート図鑑』 平松洋(著) KADOKAWA
- 『【名画】絶世の美女 魔性』 平松洋(著) 新人物往来社
- 『ルネッサンスの光と闇(下) 芸術と精神風土』 高階秀爾(著) 中公文庫
- 『誘う絵』 平松洋(著) ビジュアルだいわ文庫
- 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』 井出洋一郎(著) 中経の文庫
- 『性愛の西洋美術史』 海野弘・平松洋(監修) 洋泉社
- 『知識ゼロからの西洋絵画 困った巨匠たち対決』 山田五郎(著) 幻冬舎
- 『西洋美術史入門』 池上英洋(著) ちくまプリマ―新書
- 『官能美術史 ヌードが語る名画の謎』 池上英洋(著) 筑摩書房
- 『一生に一度は見たい ルーヴル美術館BEST100』 大友義博(監修) TJMOOK宝島社
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