ヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』のヒロインのモデル、フランス王女、エリザベート・ド・ヴァロワ。
偉大な画家たちが描いたエリザベート・ド・ヴァロワの姿と、『ドン・カルロ』のモデルとなった人びとの史実の話と一緒に見ていきます。
途中、教科書や資料集で見覚えのある、またはよく耳にする歴史上の人物も登場しますので、より理解を深めるため「婚姻関係・親子関係」についてもスペースを取りました。
肖像画の衣裳だけ堪能したいという方は、もちろんそのまま読み飛ばしていただいて大丈夫です(^^)

エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de France または Élisabeth de Valois, 1545年4月2日-1568年10月3日)

引用元:フアン・パントーハ・デ・ラ・クルスによるエリザベート・ド・ヴァロワ
1545年4月2日、エリザベート王女は、フランス国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘としてフォンテーヌブロー城で生まれました。
エリザベートは1559年にスペイン国王フェリペ2世と結婚し、ふたりの娘に恵まれます。
しかし1568年10月3日、エリザベートは23歳という若さで産褥死しました。

引用元:アンリ2世

引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
エリザベート・ド・ヴァロワを描いた画家たち
フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス( Juan Pantoja de La Cruz, 1553年-1608年)

スペインの宮廷画家・フアン・パントーハ・デ・ラ・クルスによる、気品あるエリザベートの肖像画です。
宝石が縫い付けられた黒い衣裳に、真珠のネックレス。
首周りにはラフと呼ばれる飾りがあります。
この美しい肖像画の制作年代は「1605年」とありますので、彼女が亡くなってから描かれた、または、完成したようです。
また、「イサベル・デ・バロイス」は「エリザベート・ド・ヴァロワ」のスペイン語読みです。
ソフォニスバ・アングイッソラ ( Sofonisba Anguissola, 1532年-1625年)

引用元:ソフォニスバ・アングイッソラによるエリザベート・ド・ヴァロワ
こちらの肖像画もエリザベートの「死後」のものですね。
ルネサンス期のイタリアの女性画家、ソフォニスバ・アングイッソラの作品です。
姓はAnguisciolaとも綴られ、「アンギッソラ」と表記することもあります。
ミケランジェロの助手をしていたこともあるアングイッソラは、やがてスペイン王フェリペ2世の宮廷に画家として仕えるようになります。

引用元:フェリペ2世 1573年
アングイッソラが描いたフェリペ2世( Felipe II, 1527年5月21日-1598年9月13日)です。
エリザベートはこのフェリペ2世の3人目の妻でした。
アングイッソラが初めて結婚したのは30代後半。
当時の女性としてはかなり晩婚ですが、彼女に夫となる人物を紹介したのは、エリザベート亡き後の彼女の将来を案じたフェリペ2世でした。
生前、エリザベートはアングイッソラに大きな信頼を寄せていたそうですが、この1599年頃の肖像画からは、アングイッソラのエリザベートに対する敬愛がにじみ出ているように思えます。
フランソワ・クルーエ( François Clouet, 1510年頃-1572年12月22日)

引用元:1549年の肖像画 Rezo1515 CC-BY-SA-4.0
フランス、トゥール出身の画家、フランソワ・クルーエは王家(ヴァロワ家)の人々の肖像画を多く描き、ミニアチュール(細密肖像画)も手掛けました。

引用元:フランソワ・クルーエ画 Sailko CC-BY-3.0
父のジャン・クルーエも画家で、フランソワ1世の肖像画などで有名です。

引用元:フランソワ1世の肖像画
アントニス・モル(アントニオ・モロ)( Antonis Mor, または Antonio Moro, 1520年-1578年頃)

アントニス・モル(アントニオ・モロ)は、オランダ出身の肖像画家。
神聖ローマ皇帝カール5世、皇帝の娘マリア・フォン・シュパーニエン(スペイン名マリア・デ・アブスブルゴ。後で出てきます)とも縁があり、ポルトガル王妃カタリナの肖像画も手掛けています。

引用元:ポルトガル王妃カタリナ
ポルトガル王妃カタリナ・デ・アウストリアはカスティーリャの狂女王フアナの娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の妹です。

引用元:メアリー1世
イングランド王ヘンリー8世と、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘、メアリー1世。
母キャサリンはカスティーリャ女王フアナの妹です。
メアリーが手にしているのはイングランド王家の象徴の薔薇。
メアリーはスペイン王フェリペ2世の2番目の妻でした。
胸元にはフェリペ2世から贈られた真珠「ラ・ベレグリーナ」を着けています。
ヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』あらすじ
原作はフリードリヒ・フォン・シラーの『ドン・カルロス』(1787年)、ヴェルディのオペラの初演は1867年3月です。
舞台は16世紀のスペイン。
王子ドン・カルロは、フランスの王女エリザベッタと婚約していました。
しかし、スペインとフランスとの講和の一環で、王女エリザベッタはドン・カルロの父・フィリッポ2世と結婚することになってしまいます。
絶望するカルロ。
彼女を諦めることなんて、できない。
カルロは親友のロドリーゴに切ない恋情を打ち明けますが、ロドリーゴはその情熱を宗教問題で弾圧されているフランドルを救うことに向けるように言います。
その頃、王妃となったエリザベッタと息子カルロの仲を疑う国王フィリッポ2世は、ふたりに監視を付けることにします。
美しい宮廷女官エボリ公女もまたカルロを愛していました。
公女が出した恋文を、エリザベッタからのものだと勘違いしたカルロ。
密会の場所に現れたエボリ公女はカルロの本当の想いを知り、激しい嫉妬に駆られます。
苦悩するカルロは、宗教裁判所で火刑を宣告された異教徒の処刑の場で、父王にフランドルを賜りたいと願い出ます。
しかし、父王はこれを拒絶。
激昂したカルロは剣を抜いてしまいます。
それを押しとどめるロドリーゴ。
フィリッポ2世は彼の勇気と忠誠に感動し、公爵位を授けます。
息子に裏切られ、妃から一度も愛されたことがない王。
大審問官は、進歩的な理想主義を掲げ、フランドルに肩入れするロドリーゴこそ、本当の異端者だとして処刑せよと要求します。
一方、嫉妬によってカルロに仕返しを企むエボリ公女は、カルロの肖像画を忍ばせているエリザベッタの宝石箱を盗み出し、王に渡してしまいます。
カルロの肖像画を突き付けられ、失神するエリザベッタ。
後悔したエボリ公女は、王妃に罪を告白します。
国王との不倫も明らかになり、王妃から修道院に行くように命じられました。
カルロは投獄され、そこへロドリーゴが忍んできます。
彼は反逆の罪をかぶり、国王の刺客に討たれました。
カルロは悲しみ、国王は後悔します。
そこへエボリ公女が扇動した群衆がなだれ込み、公女はどさくさに紛れ、カルロを逃がしました。
カルロはフランドル行きを決意し、エリザベッタに別れを告げます。
国王と宗教裁判長が現れてふたりを捕らえようとしますが、そこへ国王の父カルロ5世の亡霊が現れ、カルロを連れ去ります。
(参考:『オペラ・ギャラリー50 改訂版』 Gakken 『ドン・カルロ』)
この登場人物、フィリッポ2世がフェリペ2世、王妃エリザベッタがエリザベート・ド・ヴァロワ、ドン・カルロがドン・カルロス・デ・アウストリア、カルロ5世がカール5世です。
「ドン・カルロ」のモデル、ドン・カルロス・デ・アウストリア( Don Carlos de Austria, 1545年7月8日-1568年7月24日)

引用元:ドン・カルロス・デ・アウストリア

引用元:ドン・カルロス 1564年 アロンソ・サンチェス・コエリョ
ドン・カルロス・デ・アウストリアは、スペイン王フェリペ2世と、フェリペのいとこで最初の妻ポルトガル王女マリア・マヌエラの子どもです。
母マリア・マヌエラはドン・カルロス誕生から数日後、産褥で亡くなりました。
血縁同士の結婚
ドン・カルロスの母・マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(1527年10月15日-1545年7月12日)

マリア・マヌエラの両親は、 ポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリナです。

引用元:ポルトガル王ジョアン3世

夫妻はいとこ同士です。
ジョアン3世の母親はカトリック両王の三女マリア。
カタリナの母親は「狂女王」フアナ。カトリック両王の次女です。
両親や祖父母にちなんだ名前も同じで、この辺りから既に混乱してきますが、要は「皆親戚」。
肖像画で解説していきますね。
マリア・マヌエラの血縁(スペインのカトリック両王の子どもたち)
カトリック両王第一子・イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1470年10月2日-1498年8月23日)

ポルトガル王マヌエル1世の妃。息子を出産した日に亡くなりました。
カトリック両王第二子・アストゥリアス公フアン (1478年6月28日-1497年10月4日)

引用元:アストゥリアス公フアン
カトリック両王の王子。妻は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘・マルグリット・ドートリッシュです。
カトリック両王第三子・フアナ(1479年11月6日-1555年4月12日)

引用元:フアナ
姉と兄の死でカスティーリャ女王の継承権が回って来ました。「狂女王」としても知られています。
神聖ローマ皇帝カール5世、ポルトガル王ジョアン3世妃カタリナの母親。
フェリペ2世、マリア・マヌエラの祖母にあたります。
カトリック両王第四子・マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1482年6月29日-1517年3月7日)

姉イサベル亡き後ポルトガル王マヌエル1世の妃となります。
ポルトガル王ジョアン3世と、イサベル(神聖ローマ皇帝カール5世妃)の母親。
カトリック両王第五子・カタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)(1487年12月16日-1536年1月7日)

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
カトリック両王の末娘カタリナ。英語名はキャサリン・オブ・アラゴンです。
イングランド王ヘンリー8世の最初の妃で、メアリー1世を産みました。
メアリー1世はフェリペ2世の二番目の妻です。
ドン・カルロスの父・フェリペ2世(1527年5月21日-1598年9月13日)

引用元:フェリペ2世
大帝国ペインの国王フェリペ2世。
1580年にポルトガルの王位継承者が絶えたため、ポルトガル王も継承しています。
最初の妻マリア・マヌエラと死別した後、父の意向で、やはり親戚であるイングランド女王メアリー1世と結婚します。
そのメアリー1世も死亡し、カトー・カンブレジ条約の一環でエリザベート・ド・ヴァロワを3番目の妻に迎えました。
王位とともに莫大な借金も受け継いだフェリペ2世は、即位の翌年に最初の「バンカロータ(破産宣告)」をしています。
フェリペ2世の両親・神聖ローマ皇帝カール5世とイサベル・デ・ポルトゥガル

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

父カールは「狂女王」フアナの長男。
母イサベルはポルトガル王妃マリアの娘で、ポルトガル王ジョアン3世の妹です。
母親同士が姉妹のため、カールとイサベルはいとこに当たります。
狂女王フアナの子どもたち
フアナと夫フィリップ美公との間に生まれたこどもは6人います。(詳細は下記に挙げた別記事をご覧くださいませ)
フアナの第一子・レオノール・デ・アウストリア(1498年11月15日-1558年2月25日)

引用元:レオノール・デ・アウストリア
伯母イサベルと叔母マリアの配偶者だったポルトガル王マヌエル1世の3番目の妃。
夫と死別し、後にフランス王フランソワ1世の妃になります。
フアナの第二子・カール(1500年2月24日-1558年9月21日)

フアナの第三子・イサベル・デ・アウストリア(1501年5月18日-1525年1月18日)

引用元:イサベル・デ・アウストリア
デンマーク王妃。デンマークのクリスティーナの生母。
フアナの第四子・フェルディナント(1503年3月10日-1564年7月25日)

カール5世の次の神聖ローマ皇帝。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の父親。
フアナの第五子・マリア・フォン・エスターライヒ(1505年9月17日-1558年10月17日)

引用元:マリア・フォン・エスターライヒ
ハンガリーとボヘミアの王妃。後のネーデルラント総督。
フアナの第六子・カタリナ・デ・アウストリア(1507年1月14日-1578年2月12日)

これをご覧になって、彼ら家族の血の近さ、「ドン・カルロ」のモデルとなった王子カルロスの血の濃さを感じていただけましたでしょうか。
両親から濃縮された高貴な血を受け継いだカルロスは、左右の足の長さが違うなどの身体的特徴があり、知性も乏しかったという話が残っています。
1559年 カトー・カンブレジ条約( Traités du Cateau-Cambrésis )
かつてイタリアの地を巡り、フランス国王フランソワ1世と、神聖ローマ皇帝カール5世が戦いました。

国王フランソワ1世がスペイン側に捕らわれ、幼い王子だったアンリ2世が、父の代わりにスペイン側の人質となったこともあります。

そのヴァロワ朝(フランス)と、ハプスブルク家(スペイン)が、1559年に講和条約を結んだのです。
スペイン国王フェリペ2世とアンリ2世の娘エリザベートとが結婚し、「カトー・カンブレジ条約」が実現しました。
エリザベートは最初、イングランド王エドワード6世と婚約していましたが、エドワードは1553年に15歳で病死。

引用元:エドワード6世
次にエリザベートが婚約したのは、スペイン王フェリペ2世の王子カルロスでした。

ところが、フェリペ自身が、18歳も年の離れたエリザベートと結婚したのです。
その後のフェリペ2世とエリザベートの夫婦仲は良好でした。
オペラの主人公と異なり、実際のカルロスは虚弱で情緒不安定。最期は牢死しています。
フェリペ2世(フィリップ2世)は、
この王は血も涙もない暴君であり、ネーデルラント人を不当に圧迫し、実子ドン・カルロスを暗殺した、といったことが、あたかもこの目で見てきた事実かのように流布されてきた。
だがこれは、全くの誹謗である。その出所はおそらくシラーの戯曲『ドン・カルロス』であり、またこれを題材としたヴェルディの同名の戯曲であろう。この両作品によってフィリップ像はひどく歪曲されてしまった。しかしスペインの黄金時代を築いた彼には、きわめて誠実で心やさしく、人間的な暖かみが多分にある。シラーの戯曲のような偏見に満ちた創作ではなく、もっと地道なフィリップ伝(たとえばプァンドルの伝記)を閲すれば、これはたちまち明らかになる。ここではフィリップ二世のために冤をそそいでおかねばならない。
江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社. p.128.
スペイン領「ネーデルラント」について
「ネーデルラントとはほぼ今日のオランダとベルギーを合わせた領域のこと」(『ハプスブルク家』. 講談社新書. p.129.)です。
オペラ『ドン・カルロ』に出て来たフランドルは、「オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域」ですが、この時代、この場合、ネーデルラントとほとんど同義で良いと思います。
ネーデルラント17州の総督にマルグリット・ドートリッシュが就任し、その後は姪マリア・フォン・エスターライヒ(カール5世の妹)が継ぎます。

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d’Autriche)は、ドイツ語読みでは「マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(Margarete von Österreich)」といいます。
「 d’Autriche → de Autriche」は「オーストリア出身の」の意味で、「 von Österreich」と同じ意味です。
「Österreich」は「エスターライヒ」と発音し、「オーストリア」の意味です。
エリザベートとフェリペ2世の間の娘たち
政略結婚ではありましたが、フェリペ2世は妻エリザベートを大事にしていたそうです。
夫妻はふたりの王女をもうけました。
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア(1566年8月12日-1633年12月1日)

イサベル・クララ・エウヘニアの誕生を、フェリペは非常に喜んだそうです。
1568年、イサベル・クララ・エウヘニアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の息子ルドルフと婚約します。
ルドルフは1563年からフェリペ2世の宮廷で養育されていました。

引用元:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世
しかし変人ルドルフとの結婚は実現せず、イサベル・クララ・エウヘニアは1599年にルドルフの弟と結婚します。
結婚前イサベル・クララ・エウヘニアは、父の側で通訳を務めていたこともありました。
イサベル・クララ・エウヘニアは、父フェリペからスペイン領ネーデルラントの統治を任され、夫と共に治めました。
いとこで、夫となったアルブレヒト・フォン・エスターライヒです。

ルドルフ2世とアルブレヒト7世の両親ですが、

引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
父親は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の息子で、フェリペ2世のいとこです。

引用元:マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(マリア・フォン・シュパーニエン)
母親はマクシミリアン2世妃マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(マリア・フォン・シュパーニエン)。
神聖ローマ皇帝カール5世の娘で、フェリペ2世の妹です。
マクシミリアン2世とマリアは狂女王フアナの孫に当たり、1550年代に、幽閉中のフアナに夫妻で会いに行っています。
(関連記事:19世紀の歴史画に描かれたカスティーリャ「狂女王」フアナ)
カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア(1567年10月10日-1597年11月6日)

引用元:ミカエラ・デ・アウストリア
結婚後も父フェリペ2世とは文通を続けていました。
カタリーナ・ミカエラの輿入れ先はサヴォイア公国。
夫のカルロ・エマヌエーレ1世の不在時には摂政も務めました。

カルロ・エマヌエーレ1世の母親はマルグリット・ド・フランスです。

引用元:マルグリット・ド・フランス
「ド・フランス de France」と付くからには、そうです。フランスの王女様として生まれた女性です。
マルグリット・ド・フランスの父親はフランソワ1世、母親はクロード・ド・フランスです。
(フランソワ1世とクロード王妃関連記事:ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(前))
(フランソワ1世とクロード王妃関連記事:ルイ12世妃マリー・ダングルテールの「胎児管理人」)
このマルグリット・ド・フランスには、かつてマクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝)、フェリペ2世(スペイン王)との縁談もありました。
さて。
マルグリットの兄はフランス国王アンリ2世、その妻はカトリーヌ・ド・メディシスです。
…一周回って、エリザベート・ド・ヴァロワに辿り着きました。
エリザベート・ド・ヴァロワの両親は、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスでしたね。
スペイン王女カタリーナ・ミカエラから母方のフランス王室を見ると、祖父は国王アンリ2世、祖母はフランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシス、曽祖母はルイ12世王女クロード、曾祖父はフランス・ルネサンスの花が開いた時期の国王フランソワ1世です。
もう、どんだけすごいんでしょうか。
アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公の結婚

1559年のカトー・カンブレジ条約において、二組の男女が政略結婚しました。
フランス国内では、アンリ2世の王女エリザベート・ド・ヴァロワの結婚と、アンリ2世の妹マルグリット王女の婚約を祝う宴が開かれます。
しかし、6月30日、祝賀行事の馬上槍試合でアンリ2世は負傷。
この傷が元でアンリ2世は亡くなります。
亡くなる前、この事故がきっかけとなってサヴォイア公国との同盟関係が白紙に戻されることを危惧したアンリ2世は、マルグリットの結婚を急がせました。
(マルグリット・ド・フランスとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト関連記事:1559年6月30日午後、フランス王アンリ2世の事故)
1568年10月3日、エリザベートの死
エリザベート・ド・ヴァロワは1568年10月3日、子どもを死産した後亡くなりました。
1570年5月フェリペ2世は4番目の妃を迎えます。
フェリペ2世の4番目の妻・アナ・デ・アウストリア( Ana de Austria, 1549年11月1日-1580年10月26日)

引用元:アナ・デ・アウストリア
エリザベートが産んだ娘ふたりは後妻のアナに可愛がられて育ちます。
アナは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘です。
フェリペ2世とマクシミリアン2世はいとこですから、フェリペにとってアナは「いとこの子ども」ですよね。
ここでちょっと思い出してくだいませ。思い出せなければ勿論スルーで大丈夫です。
なにを思い出すかというと、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇后が誰かということ。
そうです、フェリペ2世の妹マリアです!

ということは、フェリペ2世とアナは実の伯父と姪でもあるのです。
エリザベートが遺したふたりの王女にとって、アナは従姉。
イサベル・クララ・エウヘニアにとっては当時の婚約者ルドルフと夫アルブレヒトの実姉です。
フェリペ2世とアナが伯父と姪であるため、ローマ教皇ピウス5世は反対します。
しかし、結局は認可され、ふたりは結婚しました。
このアナの産んだ男児がフェリペ3世として、次の国王となるのです。
- 江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社.
- 『オペラ・ギャラリー50 改訂版』. Gakken
- 川成洋(著). 宮本雅弘(写真). 『図説 スペインの歴史』. 河出書房新社.
コメント
コメント一覧 (16件)
Pちゃん (id:hukunekox)様
返信遅くなって申し訳ありませんでした。
ただいまこの記事の続きを準備中、近々投稿予定です。
仰るように、「伯父と姪の結婚」「二重婚」等々、ちょっと現代の私には理解できない結婚が展開して行きます。カルロスもまた出てきます。
今回も見て下さって有難うございました。またよろしくお願い致します。
こんばんは☺️
やはり物凄いお話ですね😲
物語を読んでるようで、これがその時代の普通なのかはわかりませんが、、、カルロスだけは気になってました。結局牢死とは、、💦
フィリップ2世、姪と結婚して出来た子供が後の国王って、現代では理解できない世界でしたね💦
忙しいのにありがとお(ノД`)・゜・。
帰宅する時はいろいろ気を付けるんだよ…(心配)
狂女王フアナあたりでご紹介したときは「いとこ」同士が多かったように思いますが、フェリペ2世の時には「伯父と姪」ですもん。もうね、それまでに血が凝縮されているひと同士がここでまた結びつくというね…。
こんばんは☺️
こんな時間にすいません😅
夜勤中なもので、、、親戚ってやっぱり考えられないですね😓
偉い人の所は何かとあるんですね💦
Pちゃん (id:hukunekox)様
コメント有難うございまーす(≧▽≦)!!
忙しいのにありがとー!!!見てくれてうれシーサー!!!
そそそ。ざっくり言えば、「皆親戚」。説明すっ飛ばしていましたねえ、すみません。
まあ、王国の安泰のための近親婚だしね。跡継ぎができればいいのよ。
王女様も格下の貴族と結婚なんかできない(特に長女?)から、見合う王族を探さなきゃいけないから、見繕うのも大変だったでしょうね。
最初、王子と結婚することになっていたのに、相手の王子が急死したため、そのお父さんと結婚した王女様のケースもあるのさ。
人間関係図書いていて、あまりの血の濃さに段々イヤになってきたよー💦
ハンナさん こんにちは☺️
すいません、ご無沙汰してしまいました😅
近親婚の多い王族だったのですね
読んでると、そうやって王族の血を守ろうとしてたのか?わからないことばかりですが、歴史的にそうなのですね(。・ω・。)
ことぶ㐂(ことぶき) (id:lunarcarrier)様
見て下さって有難うございます。
私も肖像画はよくわからないのですが、多分、実際よりも、気品、威厳、時には美貌が多目に盛られているのだと思います。
死後に描かれるのは「メモリアル」なんですかねえ。
アントニス・モルのドレスは彼が考えたのかな。珍しい形ですが、服飾史の本にああいうファッションが出て来ないので、どうなんだろうと思っています。アヴァンギャルドな感じですよね。皮っぽくて。
気になりますね(;’∀’)
フアン・パントーハ・デ・ラ・クルスのは23歳で亡くなっているのに、少し年上に見えます。そういう風に書くものなのかもしれませんが。
ソフォニスバ・アングイッソラのは少し微笑んでるみたいで良いな。
アントニス・モルのは15歳のころの姿ですよね。服・ドレス?が気になります。どうなってるのかな。
ko-todo (id:ko-todo)様
いつもとても丁寧なコメントを有難うございます。
二枚目の肖像画には画家の思い入れを感じます。ルネサンス期の画家ですが、私には現代のイラストのようにも見えてしまいます。素敵ですよね。
私は「あのカトリーヌ・ド・メディシスの娘で、『王妃マルゴ』の姉」という目で見てしまいますが、なんかこの時代、庶民に生まれても王族に生まれてもタイヘン…。お互いにいい相手と一緒になれればいいけど、その確率は低そうですよね(-_-メ)。
あと、もうみんなして親戚過ぎ。この図作っていてイライラしてきました(笑)。
今回も読んで下さって有難うございました。×100
お綺麗な方ですね…。
2枚目の肖像画が素敵です^^
何が事実だったのか…。
でも、息子の婚約者と結婚?というだけで、そそられる題材ではありますね^^
美貌のお姫様ということでも想像がかき立てられますし…。
有る事ない事言われて…
王族・貴族に生まれるって大変…。
人間関係?相関が…
みんな親戚なんじゃね?って感じで…。
一握りの人が権力に固執した結果かな…と。
森下礼 (id:iirei)様
コメント有難うございます。
傑作、だと思います。私はエボリ公女の歌う『呪わしき美貌 』が好きです。
しかし、突然死するヒロインや悲劇ものがそんなに好きではないので、『愛の妙薬』『メリー・ウィドウ』など、ハッピーエンドで終わる明るいものが好きですね。
『アイーダ』、一度くらいはホンモノの舞台が見てみたいです。
今回も読んで下さって有難うございました。
id:happy-ok3様
コメント有難うございます。
肖像画の見方ってよくわからないのですが、観るときは描かれた人物が存命中かどうかを一応気にしています。
存命中だったからといって、画家がその人を前にして描いたとも、美化してないとも言い切れませんが。しかし今回のエリザベートはどれも同じような感じですし、彼女に仕えた女性画家が描いたものはかなり実物に近いのではないかと思っています。
私はこうした肖像画からアンティークアクセサリー収集にハマりましたので、衣裳や宝石類には真っ先に目が行きます(笑)。
今回も読んで下さって有難うございました。
ヴェルディは、「アイーダ」の勝利の歌しか知りません。「ドン・カルロ」も傑作ですか?
こんにちは。
人物の顔は、描く方によって印象が違う事が多いですが、同じような感じですね。
そして、結婚のことも、その後のことも詳しく有難うございます。
フェリペ2世とアナのことは、随分反対されった事は、存じ上げていますが、それまでに、色んな事があったのですね。
この時代の衣装は、豪華ですし、品がありますね。
有難うございます。
schun (id:schunchi2007)様
さすが音楽家らしいお言葉ですね。
そうなんですね、自分の領分でなければ、そう考えることもあるんだ…。
私、ロベルト・アラーニャのDVDで観たことがあるくらいで、あんまり深く考えていませんでした。なるほどね~。
興味深い貴重なご意見を有難うございました。
schun (id:schunchi2007)様のナマ歌?、次の配信を楽しみにしております。
おはようございます。
結構作家さんによって印象が変わる人物が多いですが、
この方は、比較的同じような容姿で描かれていて、
印象が捉えやすい方だったのかなって思いました。
ヴェルディのドン・カルロは実はやったことがないと拝見しながら気が付きました。
ドン・カルロ自体確かバス系の訳だった気がするので、
テノールの僕には用事がないって気がするのですが、
それにしても結構いろんなアリアを歌っているのに、
なんにもやっていないオペラもあるんだぁ~って
久々に発見がありました。(笑)
ありがとうございました!!