フランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイクは英国王チャールズ1世や彼の家族の姿を描きました。今回はチャールズ1世の王女、メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートについてです。
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート( Princess Mary, Daughter of Charles I ) 1637年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ボストン美術館蔵
見るひとを魅了する微笑みを浮かべる王女様は御年6歳。
しなやかな質感のドレスが彼女の気品を引き立てていますよね。可愛く、賢そう。
隣に配された巨大な柱の台座は、対象となる王女メアリー・ヘンリエッタの魅力を高めるために意図されたものだということです。(参考:『ボストン美術館展 芸術×力』(2022年))
王室の人々の肖像画が通常果たす役割は、王族同士の婚姻を祝う、ないしは婚姻を進めることにある。そうした婚姻は、国家の安寧と統治者一族の繁栄の鍵となるものだった。未婚の王侯貴族の肖像画は、たとえそのモデルがいまだ子供であっても、求婚される可能性のある相手に働きかけるために贈られた。実際のところ、メアリー王女の父親は、スペインないしドイツの王族のどちらかとの婚姻を通じて国家間の同盟を確実なものにしたいと望んでいたのだが、結局王女はオランダ総督家のオラニエ公ウィレムと結婚した。
『ボストン美術館展 芸術×力』(2022年). p.182.
写真が無い時代の、「お見合い」肖像画ですね。
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート( Portrait of Mary Stuart I, Princess Royal and Princess of Orange (1631-1660) ) 1637年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ハンプトン・コート宮殿
イギリスのハンプトン・コート宮殿にある “プリンセス・ロイヤル” の肖像です。
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート( Mary Henrietta Stuart , 1631年11月4日-1660年12月24日)
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートは、イングランド、スコットランド王チャールズ1世(1600年-1649年)の王女として生まれました。
引用元:『狩場のチャールズ1世』
メアリー・ヘンリエッタの生母は、フランス王女ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(1609年-1669年)です。
王族同士の政略結婚ではありましたが、夫婦仲はとても良かったようです。
ヘンリエッタ・マリアの両親は、フランス王アンリ4世と、イタリアの名門メディチ家のマリー・ド・メディシス。
ヘンリエッタ・マリアの兄はルイ13世です。
ヘンリエッタ・マリアは母国の制度にならい、フランス王の長女に贈られる「マダム・ロワイヤル( Madame Royale)」の称号を娘メアリー・ヘンリエッタ王女にも授けて欲しいと夫に頼み、チャールズ1世が「プリンセス・ロイヤル( Princess Royal )」を創設しました。
兄や妹たち
チャールズ1世夫妻には、夭折した子どもを含め、9人の子どもがいました。
兄・イングランド、スコットランド、アイルランドの王チャールズ2世(1630年5月29日-1685年2月6日、在位:1660年5月29日-1685年2月6日)
引用元:チャールズ2世
ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王「陽気な王様」チャールズ2世。( Charles II )
弟・イングランド・スコットランド・アイルランドの王ジェームズ2世(1633年10月14日-1701年9月16日、在位:1685年2月6日-1688年)
引用元:イングランド・スコットランド・アイルランドの王ジェームズ2世
スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世
( James VII of Scotland and James II of England )。
末妹・ヘンリエッタ・アン・ステュアート(フランス名アンリエット・ダングルテール、1644年6月16日-1670年6月30日)
引用元:ヘンリエッタ・アン・ステュアート(フランス名アンリエット・ダングルテール)
ヘンリエッタ・アン・ステュアート( Henrietta Anne Stuart )は、フランス名ではアンリエット・ダングルテール( Henriette d’Angleterre )。
いとこであるフランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の妃となりましたが、「アンリエット・ダングルテール」としてルイ14世の恋人だったことの方が有名?
ヴァン・ダイクによる家族の肖像画
引用元:チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
『チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート』とこの後の子ども達の運命も解説
下はチャールズ1世の、年上三人の王子・王女たち。
右にいるのがメアリー・ヘンリエッタ。左はチャールズ2世、真ん中はジェームズ2世です。
引用元:チャールズ1世の子どもたち
次に、左からチャールズ2世、メアリー・ヘンリエッタ、ジェームズ2世。
引用元:チャールズ1世の子どもたち CC-BY-SA-3.0
次の画像、左にいるのがメアリー・ヘンリエッタ、隣にジェームズ2世、中央はチャールズ2世。
赤ちゃんのアン・ステュアートを抱っこしているのが妹エリザベス・ステュアート。
引用元:チャールズ1世の子どもたち
『チャールズ1世の子どもたち( The Five Eldest Children of Charles I )』の絵画も載っています。勿論チャールズ1世、チャールズ2世に関する話も載っていますので、歴史と絵画を一緒に学ぶことができます。
メアリー・ヘンリエッタ・スチュアートの婚約
オラニエ公ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの婚約記念画( William II, Prince of Orange, and his Bride, Mary Stuart ) 1641年 アンソニー・ヴァン・ダイク アムステルダム国立美術館蔵
引用元: オラニエ公ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの婚約記念画
アムステルダム国立美術館:Willem II en zijn bruid Maria Stuart, Anthony van Dyck, 1641
オラニエ公ウィレム2世( Willem II van Oranje-Nassau, 1626年5月27日-1650年11月6日)
サザビーズ:Portrait of Prince Willem II of Orange as a Young Boy, with a Dog
本作はチャールズ1世の要請によって描かれたそうです。
羽根飾りが付いたベルベットの帽子に、首元にはレースの襟。袖口もレースで飾られていますね。
袖にはスラッシュが入っています。
オランダ総督家の王子様が着ているオレンジがかったシルクのガウンは、彼の生家の色を表しているとのこと。
沈黙公ウィレム1世に始まったオラニエ=ナッサウ( Oranje-Nassau )家は、南フランスのオランジュ、オランダ・ドイツのナッサウに領地を持っていました。
オランジュはオランダ語ではオラニエ( Oranje )、英語でオレンジ( orange )。果物のオレンジはオラニエ家のシンボルとなっています。
ヴァン・ダイクは、左に描いたオレンジ色の木で少年の系譜を示してみせ、背後にはナッサウ家の紋章とライオンが刺繍された豪華なタペストリー・アラス( tapestry arras )を描いています。
引用元:オラニエ – ナッサウ家の紋章(1582年) Arch
画家アンソニー・ヴァン・ダイク(英: Anthony van Dyck, 1599年3月22日-1641年12月9日)
引用元:ヴァン・ダイク自画像
1599年、バロック期を代表する画家のひとり、ヴァン・ダイク( Antoon van Dyck )はフランドルの出身です。
出生地のアントウェルペンの英語名はアントワープ、当時オランダはスペイン領でした。
同じフランドル出身の画家ルーベンスに師事し、後にイングランド王チャールズ1世の首席宮廷画家として活躍しました。
師ルーベンスはチャールズ1世の美術品の購入に助言をしていましたが、1620年以降ヴァン・ダイクもイングランド宮廷との関係が続いていました。
1632年、ヴァン・ダイクは、現在のオランダのデン・ハーグで、チャールズ1世の姉エリザベス・ステュアートの肖像画を描いています。(下の肖像画はヘラルト・ファン・ホントホルストによるものです。)
当時、エリザベス・ステュアートは、夫フリードリヒ5世(プファルツ選帝侯)についてオランダに亡命中でした。
引用元:エリザベス・スチュアート
1631年の終わり、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックに召喚されたヴァン・ダイクは、アントウェルペンからハーグの宮廷へ向かいます。
ヴァン・ダイクは 1632年1月の終り頃に到着し、ハーグでフレデリック・ヘンドリック夫妻、ウィレム2世の肖像画も制作しました。
同年4月、ヴァン・ダイクは再びロンドンを訪れます。
7月には年金や爵位を授けられるとともに、イングランド宮廷の首席画家に任命されました。
オラニエ公ウィレム2世の両親
引用元:オラニエ公フレデリック・ヘンドリック妃アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルス
アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスは、ゾルムス=ブラウンフェルス伯の娘。
オランダに亡命していたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃エリザベス・ステュアートの侍女をしていました。
1625年、兄マウリッツから家督を継いだフレデリック・ヘンドリック。
亡くなる前にマウリッツは、フレデリック・ヘンドリックと長く愛人関係にあったアマーリエと結婚するように言い、ふたりは結婚します。
サザビーズの解説の『犬をつれた少年時代のオラニエ公ウィレム2世の肖像』の中に、「チャールズ1世のためにヴァン・ダイクが描いたフレデリック・ヘンドリックとアマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスの肖像画については、(中略)マドリッドのプラド美術館に保存されているヴァージョンがある」とありました。
他のヴァージョンもあるようですが、「それぞれ「おそらく1632年にチャールズ1世が購入したヴァージョン」と記されている」とのことです。
1641年の婚約
引用元:アン王女を抱くエリザベス王女
チャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの母マリー・ド・メディシスは、エリザベス王女を、オラニエ公ウィレムと婚約させることを考えていたようです。( Wikipedia:Elizabeth Stuart (daughter of Charles I))
引用元:マリー・ド・メディシス
チャールズ1世はオラニエ公を英国王女より「格下」と考えていたようですが、自国の経済的・政治的問題のため、メアリー・ヘンリエッタをウィレム2世と結婚させることにしました。
9歳の王女と14歳のオラニエ公です。
アムステルダム国立美術館の解説によると、この絵はウィレム2世の父フレデリック・ヘンドリックによってヴァン・ダイクに依頼されたそうです。
メアリー・ヘンリエッタのドレスに輝く大きなブローチは、ウィレムからのプレゼントであるダイヤモンドとのこと。
銀の刺繍とリボンで飾られたピンクのドレスを着たメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの全身像(1641年)
クリスティーズ:Portrait of Princess Mary (1631–1660), daughter of King Charles I of England,
本作は、1654年、ウィレム2世の母アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスのコレクションの目録にあったそうです。
クリスティーズの解説によると、この肖像画は、1641年5月2日にメアリー・ヘンリエッタがウィレム2世と結婚した直後に制作されました。
新婦は結婚後1年間イングランドに留まり、1642年にオランダに渡りました。
アムステルダム国立美術館のものとこの肖像画の中で、メアリー・ヘンリエッタは結婚指輪と、「結婚翌日の1641年5月3日にウィレムから贈られた、大きなダイヤモンドのブローチを身に着けている」とあります。
引用元: オラニエ公ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの婚約記念画
ダイヤモンドといえば、光を反射して、もっとキラキラ煌めいていますよね。
それがこの絵では何だが黒っぽいですね。
クリスティーズの解説によると、この頃はまだ現在のようなダイヤモンドのカットの技術はありませんでした。
その代わり、輝きよりも硬度が高く評価され、色を強調する目的にホイルで裏打ちされていることが多かったため、この肖像画では黒く見える、とのことです。
また、メアリー・ヘンリエッタが着ている愛らしいコーラル色のガウンは、彼女が結婚式で着たものに似ていると考えられていて、生地が銀の布( cloth of silver と文にありました)であった可能性があることを示唆している、ともあります。
前開きのガウンに、スカートとお揃いのストマッカ―(衣装の胸(腹)当て部分)、そこに縫い付けられたリボンについても言及がありました。
ロサンゼルス・カウンティ美術館:Woman’s Stomacher
英語ではストマッカ―( stomacher )、フランス語でピエス・デストマ( Pièce d’estomac )といい、ボディスの前面に取り付ける三角形の装飾パネル。刺繍、リボン、真珠、宝石などで飾ります。
昔のスカートとストマッカ―は、リボンによってボディスに結び付けられていました。
メアリー・ヘンリエッタの肖像画のリボンは「純粋に装飾として」使われていますが、ボディスとスカートの間にある縫い目を隠すため、「リボンのひとつがピン留めされているか、平らに縫い付けられている」と解説にあります。
(例えば「袖」ですが、13世紀初め頃、袖はリボンやボタンで衣服と結ばれているだけだったようです。
ジョルジュ・ド・ラトゥールの怖い絵画『いかさま師』(1635年)では、素敵なリボンで留められている様子を見ることができます。左の女性の袖はボタンで留められています。)
王女様が身に着ける豪華×豪華なレースや刺繍などの素敵アイテムに溜め息ばかりですが、これを描き出した画家の技量にも目眩がしそうです。
細かい…。繊細過ぎ。すっごくリアル。光沢のあるドレスの質感も「触ってみたい!」と思わずにいられません。
清教徒革命
ウィレム2世の妹ルイーゼ・ヘンリエッテ(1627年12月7日-1667年6月18日)
ウィレム2世の妹、ハーグ生まれ。
ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエン(ドイツ語名:Luise Henriette von Oranien )にもチャールズ2世との婚約話が持ち上がりました。
しかしこれは実現せず、1646年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚します。
引用元:ルイーゼ・ヘンリエッテ
オラニエ公家はイングランド王家、ブランデンブルク選帝侯と縁ができ、これから起こる明るい未来を描いていたことでしょう。
フレデリック・ヘンドリックは領土を拡大し、各国との外交を展開。八十年戦争の終結に尽力しましたが、1647年にヴェストファーレン条約の成立を目前に亡くなりました。
父の逝去に伴い、20歳のウィレム2世はオラニエ公位を継承。6州の総督と陸海軍最高司令官に任命されます。
ヴェストファーレン条約の成立により、1648年に八十年戦争は終結しました。
オラニエ公ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの肖像( Portret van Willem II (1626-1650), prins van Oranje, en zijn echtgenote Maria Stuart (1631-1660), Gerard van Honthorst ) 1647年 ヘラルト・ファン・ホントホルスト アムステルダム国立美術館蔵
引用元:オラニエ公ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
バルコニーに立つ夫妻の肖像画は、ウィレム2世が総督に就任した1647年に制作されました。
右手に指揮杖を持ち、甲冑姿のウィレム2世。
頭上に舞うプット―のうち、右の2人は王子の兜で遊んでいます。
1646年 兄チャールズ2世、国外へ亡命
清教徒革命による危険を避け、チャールズ2世は母と共に母の故国フランスに亡命します。
当時のフランスは従弟であるルイ14世の治世でした。
引用元:ルイ14世
しかしチャールズ2世にとってフランスは安住の地とはならず、義弟のウィレム2世を頼りオランダのハーグに移り住みます。(1648年)
1649年1月 父チャールズ1世処刑
メアリー・ヘンリエッタの父、チャールズ1世が処刑されました。
追い詰められた王党派の人々は、チャールズ1世の長女であるメアリー・ヘンリエッタやオラニエ家を頼りハーグに逃れます。
護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国となったイングランドはオランダに接近。
オランダに対し王党派の追放を求め、チャールズ2世はオランダ連邦議会の圧力でフランスへ移りました。(1649年)
オラニエ公ウィレム2世の父フレデリック・ヘンドリックは子女を強国と縁組みさせるなど、国際社会におけるオランダの地位向上に貢献しましたが、この時のオランダは板挟みになってしまいます。
1641年に結婚したメアリー・ヘンリエッタは、清教徒革命直前にオランダに渡っていました。
オランダに亡命してきた兄チャールズ2世や弟のヨーク公(後のジェームズ2世)、弟グロスター公ヘンリーを迎え入れます。
引用元:チャールズ1世の子どもたち
レリーが描いたチャールズ1世の「下3人」の子どもたち、ジェームズ2世(当時14歳、右)、エリザベス(当時12歳、中央)、ヘンリー(当時8歳、左)です。
アン王女は1640年に3歳で亡くなっており、1644年に生まれた一番下のヘンリエッタ・アン(アンリエット・ダングルテール)はここには描かれていません。
革命が起こった後、グロスター公ヘンリーは次姉エリザベス、次兄ジェームズらと共に人質生活を続けていました。
1650年、一緒に軟禁されていた次姉エリザベスが肺炎で亡くなると、ヘンリーは1652年にイングランド共和国により釈放。長姉メアリー・ヘンリエッタがいるオランダへ送られます。
1653年。オランダを出てフランスのパリに入ったヘンリーは、そこで長兄チャールズ、次兄ジェームズ、妹ヘンリエッタ・アン、幼い頃別れた母ヘンリエッタ・マリアと再会しました。
ウィレム2世は、妻の実家ステュアート王家の復活に向けて動きます。
ステュアート家を助けるべく陸軍の強化を目指しますがホラント州の拒否に遭い、陸軍を縮小する事態になりました。
国内はオラニエ家派と反オラニエ家派に分かれてしまいます。
働きかけ続けたウィレム2世は志半ばで天然痘に倒れ、1650年11月6日に亡くなります。わずか3年の治世でした。
11月14日、メアリー・ヘンリエッタは長男ウィレム3世を出産。
ウィレム2世が亡くなった後、オランダは、今後は総督を任命しないこととし、オラニエ家を政治の世界から締め出します。
メアリー・ヘンリエッタは、自分を頼ってオランダに亡命してきたステュアート家の兄弟を厚遇したことで、オランダ国民の間では不人気であり、義母アマーリエの不興も買っていたようです。
国民は、チャールズ2世やヨーク公(ジェームズ2世)を支援するメアリー・ヘンリエッタを許容することができず、縁者の受け入れを禁止。
メアリー・ヘンリエッタ自身も1654年から3年間国外で過ごさなくてはなりませんでしたが、このことはチャールズ2世にとっても痛い出来事でした。
そして1657年、他国での生活を経てメアリー・ヘンリエッタはオランダの摂政となります。
しかし、オランダの支配を狙うフランス王ルイ14世がたびたび介入し、メアリー・ヘンリエッタは困難な統治を強いられました。
イングランドの護国卿クロムウェルは、ステュアート家がオラニエ家と結び付きを強めて復活することを強く警戒していましたが、1658年に死去。
1651年に既にスコットランド王として戴冠していたチャールズ2世は、ついにイングランドに帰国します。
オラニエ公の未亡人
未亡人としてのメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート( Maria Stuart als weduwe van Willem II ) 1652年 バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト アムステルダム国立美術館蔵
21歳のメアリー・ヘンリエッタ。
美しい白いドレスに身を包んでいますが、アムステルダム国立美術館のコレクション名品集(日本語版)によると、これは喪服だそうです。
ファン・デル・ヘールストが英国王女マリー(マリアの愛称)のこの肖像を描いたとき、彼女は21歳で、夫であるオランニェ家の王子ウィレム二世(1626年-1650年)を失って二年あまり経ったときのことであった。彼女は白い喪服で、デン・ハーグの宮廷ビネンホフのスタットホウダ―ポールトの下に座る姿で描かれている。手にはオランニェ家のシンボルであるオレンジを持っている。
Babel, Utrecht (訳). 1995. 『RIJKSMUSEUM AMSTERDAM 美術館コレクション名品集』. p.43.
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートと息子ウィレム3世 1652年 ヘラルト・ファン・ホントホルスト ブレダ市立美術館蔵
ブレダ市立博物館:Uit de Collectie Nederland: Gerard van Honthorst in het Stedelijk Museum Breda
メアリー・ヘンリエッタが抱いているのは、息子のウィレム3世です。
ウィレム3世が手にしているのはオレンジの花のようですね。
ブレダ市立博物館の解説には、「メアリーの黒いドレスは、彼女がまだ喪に服していることを示している」とあります。
夫ウィレム2世は1650年11月6日に亡くなりましたが、息子ウィレム3世は父親の死から約1週間後(11月14日)に生まれました。
父親チャールズ1世に敬意を表して息子をチャールズとしたかったメアリー・ヘンリエッタに対し、義母アマーリエはウィレムと名付けることを主調。
メアリー・ヘンリエッタは、夫の母アマーリエ、夫の妹ルイーゼの夫であるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと共に息子の後見人となりました。
引用元:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと妻ルイーゼ・ヘンリエッテ
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート胸像
引用元:メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート CC-BY-SA-3.0-migrated
1660年、兄のチャールズ2世がイングランド王に即位します。
それに伴い、オランダにおけるメアリー・ヘンリエッタの立場は劇的に好転しました。
同じ年、20歳の末弟グロスター公ヘンリーは迎えの艦隊に乗り込み、イングランドに帰国します。
5月29日にロンドンへ戻り王政復古を迎えましたが、ヘンリーは9月13日に天然痘で急死。
メアリー・ヘンリエッタは9月に故郷に戻りましたが、夫や弟と同じ天然痘にかかり、12月24日にホワイトホール宮殿で亡くなりました。
ウィレム3世( William III, 1650年11月14日-1702年3月8日)
引用元:オラニエ公としてのウィレム3世
オランダ名ではウィレム3世( Willem III van Oranje-Nassau )ですが、英語名では「ウィリアム」3世です。
オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日-1702年3月8日)、
オランダ総督(在職:1672年6月28日-1702年3月8日)、
イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 – 1702年3月8日)。
スコットランド王としてはウィリアム2世。
ウィレム3世は、イングランド王ジェームズ2世の娘でいとこのメアリーと結婚します。
引用元:メアリー2世
イングランド議会は、国民に不人気だったジェームズ2世を排除し、ジェームズ2世の王女・メアリーを王位につけようとします。
しかしメアリーは夫ウィレムとの共同統治を望み、夫妻は共同統治者として、イングランド、スコットランド、アイルランドの王位につきました。
やがて、ウィレム3世は「アウクスブルク同盟戦争」において、フランスのルイ14世と敵対することになります。
王家の肖像画を描いた画家たち
画家ピーター・レリー(英: Sir Peter Lely, 1618年9月14日-1680年11月30日)
引用元:ピーター・レリー
ピーター・レリーは、オランダ人の両親のもと、ザクセン公国(現在はドイツ)で生まれました。
本名はピーテル・ファン・デル・ファース( Pieter van der Faes )。父親はザクセン選帝侯軍の将校だったそうです。
レリーがイングランドに渡ったのは1641年頃。その年の12月に宮廷の首席画家を務めたアンソニー・ヴァン・ダイクが亡くなっています。
1660年、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世が王位に就き、レリーはイングランド宮廷の首席画家に就任しました。
美術品の収集家でもあり、チャールズ1世処刑後に散逸したコレクションも購入したレリー。
イタリアのゴンザーガ家や巨匠ルーベンス、チャールズ1世を魅了したヴィーナス像も入手しています。
ヴィーナス像は、国王となった後のチャールズ2世によって買い戻されました。
画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト( Gerard van Honthorst, 1592年11月4日-1656年4月27日)
オランダの画家でユトレヒト生まれ。ヘリット・ファン・ホントホルスト( Gerrit van Honthorst )とも表記。
イタリア美術、カラヴァッジォに影響を受けました。
人気画家となったホントホルストはプファルツ選帝侯妃エリザベス・スチュアート(チャールズ1世の姉。オランダに亡命中)の肖像画を描いたことから宮廷に出入りするようになり、1628年、チャールズ1世によってイングランドに招かれました。
イングランドから帰国後、ホントホルストはオラニエ公妃アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスの宮廷画家となり、1637年にハーグへ移住しています。
知っていそうで知らないオランダの歴史。旅行に行く人も行かない人も目を通しておくと良いかもです。
君塚 直隆氏の『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』文庫版です。
- 佐藤弘幸(著). 2019-5-30. 『図説 オランダの歴史』. 河出書房出版社.
- 森田安一(著). 1998-4-20. 『世界各国史 14 スイス・ベネルクス史』. 山川出版社.
- 中野京子(著). 2017-11-10. 『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』. 光文社新書.
- 『ボストン美術館展 芸術×力』(2022年).
- Babel, Utrecht (訳). 1995. 『RIJKSMUSEUM AMSTERDAM 美術館コレクション名品集』.
コメント
コメント一覧 (2件)
ハンナさん、こんにちは。
メアリー・ヘンリエッタのの冒頭の肖像画は6歳とのことですが、なんだか凛としていて威厳がありますね。さすがプリンセスと言う感じです(^-^)
かわいらしい子供たちの写真を見ると、大人になって本当に色々なことがあるけれど(名誉革命とか、清教徒革命とか)、小さい頃はみな無邪気だったのでしょうね。
それにしても、ジェームズとか、チャールズとかメアリーとかこの頃は同じような名前が沢山あるので、フルネームで覚えなくては、誰が誰だか分かりませんね。(笑)
光沢を帯びた絹の質感に、高級感と、品の良さが感じました!!
ぴーちゃん様
今回も読んでくださって有難うございます。
世界史の登場人物って、名前が似ていて覚えづらいですよね。別人?と驚いたり、え、同一人物?と驚いたり。もー大混乱です。
ヴァン・ダイクが描いた王子様や王女様は可愛くて、お互いに仲が良さそうに見えますが、実際に悪くはなかったのかなと思われます。
チャールズ1世夫妻の仲も良かったそうですし、それぞれ幸せな子供時代を過ごしていたのでしょう。
しかし、その後彼らを襲った激動の日々。
故国で父を処刑され、嫁いだ異国で夫を若くして亡くしたメアリー・ヘンリエッタの肖像画を通して、清教徒革命という教科書で習った歴史的事件の中にいた人間の人生を思わずにいられません。
ヴァン・ダイクは人物描写も素晴らしいですが、レースやシルクの質感に感動します。非常に高級感ありますよね!