1570年、神聖ローマ皇帝の長女アナはスペインに嫁ぎ、次女エリザベートはフランスに嫁ぎます。
肖像画家フランソワ・クルーエの作品でヴァロワ朝の人物を見ていきます。

フランス王シャルル9世妃エリザベート・ドートリッシュ( Élisabeth d’Autriche, 1554年6月5日-1592年1月22日)

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エリザベートの肖像画の衣裳
1500年代、女性たちの間に、宝石をセットした大きなペンダントつきの重厚なネックレスや、大きなペンダント・ブローチを付けた真珠のネックレスが流行しました。
袖を留めているのは真珠付きのピンでしょうか。
袖から白いものがぽこぽこ出ていますが、これは下に着ているリネンなどの布です。
袖にわざわざ切れ込み(スラッシュ)を入れたり、二枚の生地と生地の間から、下の布を引っ張り出しているのです。
また、この時代の肖像画には、男女の首の部分に「ラフ」と呼ばれる襟が見られます。
始まりはスペインだったと言われ、
ある高貴なスペイン婦人の喉首に醜い腫れ物ができ、美貌が台無しになったと日夜嘆いていた。この腫れ物をどうにかして隠すために、首とあごをすっかり覆う大きなレースのラッフルが考え出されて、これがラフ誕生になったというのである。そしてたちまちスペインじゅうの人々の首にラフの花が咲いたというわけだった。
レスター&オーク(著). 古賀敬子(訳). 『アクセサリーの歴史事典 上』. 八坂書房. p.125.
ラフはイタリアにも広まり、カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王アンリ2世に輿入れする時にフランスへ持ち込んだと言われています。
このクルーエの描くエリザベート・ドートリッシュのラフがやがて、大きな車輪型のラフに発展します。

エリザベートの伯父であるスペイン王フェリペ2世の娘、イサベル・クララ・エウヘニアのラフです。
大型の襞襟はスペインのラフの特徴ですが、レースが素晴らしいですね。
繊細かつ巨大な襞襟は日常的なファッションではなく、盛儀の際に整えられた姿であり、威信の表出としての意味をもつ。
徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社. p.16.
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エリザベート・ドートリッシュのドイツ語名
エリザベートのドイツ語名は、エリーザベト・フォン・エスターライヒ( Elisabeth von Österreich )と言います。
「~・ドートリッシュ」「~・フォン・エスターライヒ」「~・デ・アウストリア」、どれもフランス語・ドイツ語・スペイン語で「オーストリアの」という意味です。
これでエリザベートはオーストリア出身のお姫様だとわかります。
フランソワ・クルーエによるエリザベートの肖像画
フランソワ・クルーエ( François Clouet, 1510年頃-1572年12月22日)は、ヴァロワ王家、16世紀のフランス宮廷の貴族たちの肖像画を多く描きました。ミニアチュール(細密肖像画)も手掛けています。
父のジャン・クルーエも『フランス国王フランソワ1世』の肖像画で知られる画家です。
(関連記事:ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(前))

引用元:フランソワ1世
フランソワ・クルーエによるエリザベートの肖像画は前出のもの以外にもあり、ほぼ同時期に描かれているようです。
もしかしたら、ある絵を元にして、その絵から新たな絵を起こしているのかもしれませんね。
フランス王ルイ14世などは忙しくてモデルとしてポーズを取る時間も無かったので、画家は顔だけスケッチして、全身像に書き加えていたそうです。もしかして、このエリザベートの肖像画も…?

引用元:クルーエによる肖像画

次に、この立ち姿の女性の肖像画を見て、私はエリザベートに「似ている」と思うのですが、いかがでしょうか。
姉アナ・デ・アウストリア( Ana de Austria, 1549年11月1日-1580年10月26日)


引用元:アナ(顔部分)
アナ・デ・アウストリアのドイツ語名はアンナ・フォン・エスターライヒ( Anna von Österreich )。
伯父に当たるスペイン王フェリペ2世の四番目の妃で、フェリペ3世の生母です。
(関連記事:ヴェルディの『ドン・カルロ』ヒロインのモデル、エリザベート・ド・ヴァロワ)

引用元:フェリペ2世
アナとエリザベートの家族
両親マクシミリアンとマリア
アナとエリザベート姉妹の父親は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世です。その父親は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世。


母マリアは神聖ローマ皇帝カール5世の娘で、スペイン王フェリペ2世の妹です。
マクシミリアン2世とはいとこ同士です。


引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
カールとフェルディナントは兄弟で、ふたりの両親はカスティーリャの狂女王フアナとブルゴーニュのフィリップ美公です。
(関連記事:狂女王フアナの子供たち、と孫娘『デンマークのクリスティーナ』)
アナとエリザベートの兄弟のひとり・ルドルフ2世

兄弟のひとり、ルドルフ2世です。
ルドルフ2世はフェリペ2世によってスペインで養育され、幼いイサベル・クララ・エウヘニアと婚約します。
しかし、結婚には至らず、ルドルフは独身を通しました。

ルドルフ2世がジュゼッペ・アルチンボルドに公式に依頼した肖像画です。
ルドルフ2世を豊穣神ウェルトゥムヌスに見立てて描いています。

アルチンボルドが描いた、アナ(アンナ)の少女時代の肖像画です。
オーストリアとフランスの二重結婚
1564年頃、フランスのカトリーヌ・ド・メディシス、オーストリアの神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世たちの頭のなかには、お互いの子女を結婚させる考えがありました。
オーストリアの皇太子ルドルフ2世と王女マルグリット(マルゴ)の縁談も考えられましが、 ルドルフは極めつけの変人でこれは白紙に。
マクシミリアン2世は次女エリザベートをフランス王シャルル9世に嫁がせ、長女アナを親戚のスペイン王家に嫁がせます。

マクシミリアン二世は娘を、フランス王家に嫁がせることに難色を示す親戚スペインをなだめるために、長女アンナをスペイン王フェリペ二世の四番目の妻に送り込んでいる。因みに彼女は最初、フェリペ二世の嫡男、あのドン・カルロスの花嫁にと目されていたが、カルロスの廃嫡と獄死により急遽、息子ではなく父に嫁いだのである。このマクシミリアン二世帝の長女と次女の結婚は一五六九年、同時におこなわれた。
菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫.筑摩書房. p.53.
エリザベートの夫・フランス王シャルル9世( Charles IX de France, 1550年6月27日-1574年5月30日)

ヴァロワ朝第12代フランス王(在位:1561年-1574年)です。
国王シャルル9世の家族を、肖像画家クルーエの絵を中心に見る
ここからは、フランソワ・クルーエ本人が描いたとされているものを中心に、1500年代後半のヴァロワ朝宮廷にいた人々を見て行きます。
父・フランス国王アンリ2世( Henri II de France, 1519年3月31日-1559年7月10日)

引用元:アンリ2世
ヴァロワ朝第10代のフランス王アンリ2世。
後に「ノストラダムスの予言が当たったのではないか」と騒がれるような事故死をします。
母・カトリーヌ・ド・メディシス( Catherine de Médicis, 1519年4月13日-1589年1月5日)

引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
母親カトリーヌ・ド・メディシスは名門メディチ家の出身。ローマ教皇クレメンス7世は親戚です。
王族ではないため「商人の娘」と蔑まれ苦労しますが、アンリ2世の死後フランスの摂政となり、国王の母として宮廷に君臨します。
また、世界史でも有名な「サン・バルテルミの虐殺」に関わったとされています。
兄・フランソワ2世( François II de France, 1544年1月19日-1560年12月5日)

引用元:フランソワ2世
兄嫁・スコットランド女王メアリー・スチュアート( Mary Stuart, 1542年12月8日-1587年2月8日)

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長男、フランソワ2世。
ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年-1560年)です。
フランソワ2世の妃はスコットランド女王メアリー・スチュアート。
スコットランド女王メアリー1世です。
メアリーの生母はメアリー・オブ・ギーズといい、フランスの大貴族ギーズ家の出身です。
メアリー・スチュアートは幼い頃から美貌で知られ、フランス宮廷で養育されました。
病弱だったフランソワ2世が亡くなった後メアリーはスコットランドに帰国しますが、最後はライバルであるイングランド女王エリザベス1世によって処刑されます。
少年時代のシャルル9世の憧れの女性だったらしく、シャルルの愛人はメアリー・スチュアートに似ていたそうです。
姉・エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de Valois, 1545年4月2日-1568年10月3日)

引用元:1549年の肖像画 Rezo1515 CC-BY-SA-4.0
シャルル9世の姉、アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ(またはエリザベート・ド・フランス、Élisabeth de France )は、フェリペ2世の三番目の王妃です。
スペイン語名はイサベル・デ・バロイス( Isabel de Valois )といいます。
フェリペとの間にイサベル・クララ・エウヘニア(前出)とカタリーナ・ミカエラの娘たちをもうけましたが、若くして産褥死しています。
エリザベートのふたりの娘は、フェリペの後妻となったアナ・デ・アウストリアによって愛情込めて育てられました。

引用元:フランソワ・クルーエ画 Sailko CC-BY-3.0
姉・クロード・ド・ヴァロワ( Claude de Valois, 1547年11月12日-1575年2月21日)

引用元:クロード
アンリ2世の次女クロード・ド・ヴァロワ(またはクロード・ド・フランス、Claude de France )は、ロレーヌ公シャルル3世の妃となりました。
母カトリーヌ・ド・メディシスのお気に入りの娘でしたが、身体が弱く、出産で亡くなっています。
(関連記事:カトリーヌ・ド・メディシスとアイスクリームとジャム)

引用元:ロレーヌ公シャルル3世

引用元:デンマークのクリスティーナ
夫の母「デンマークのクリスティーナ」

デンマーク王女クリスティーナの母親はイサベル・デ・アウストリアといい、狂女王フアナの娘の一人で、神聖ローマ皇帝カール5世、フェルディナンド1世の姉妹です。
息子シャルルの名はクリスティーナの大伯父であるカール5世にちなんで付けられました(「シャルル」はカールのフランス語読み)。
後のロレーヌ公フランツ・シュテファン(マリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝)を通して、フランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットのご先祖様です。
シャルル9世( Charles IX de France )

引用元:シャルル9世(1560年代)

引用元:シャルル9世(1561年)
母親であるカトリーヌ・ド・メディシスの言いなりだったシャルル9世でしたが、
神経質で、ときに病的なほどエキセントリックな素顔を、徐々に露にし始めた頃でもあった。短気であるとか、乱暴であるとかの域に留まらず、とにかく血を見ると興奮した。狩りで獣を仕留めると、好んで解体したとも伝えられる。妹のマルゴでないが、そろそろ年頃ということでいえば、シャルル九世は性的な衝動も激越だった。王という誰にも罰せられない地位をよいことに、貴族でも平民でも気に入った娘を手当たり次第に捕まえて、力ずくで強姦するようになったのだ。
ちょっと、尋常でない。もっとも性的な衝動のほうは、しばらくして落ち着いたようである。寵姫と呼ぶには慎ましやかながら、とにかく気に入りの愛人ができた。マリー・トゥーシェという、オルレアンでバイイ代理をしていた男の娘だが、この女との間には一五七三年四月二十八日に息子も生まれている。庶子なので 王位継承権はないが、シャルル・ドゥ・ヴァロワと呼ばれ、後にオーヴェル伯、アングーレーム公となる王子である。
ずいぶん御執心だが、それというのもマリー・トゥーシェが、マリー・ステュアール、つまりはスコットランド女王メアリー・スチュアートに似ていたからだとの説がある。シャルル九世からすれば義姉になるが、この伝説の美女を少年ながら憧れの目で眺めていたとしても、さほど不自然な話ではない。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.315.
弟・アンリ3世( Henri III de France, 1551年9月19日-1589年8月2日)

シャルル9世の弟、アンリ3世はヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年-1589年)。ポーランド王も兼ねています。
画家ニコラス・ヒリアードはイングランド女王エリザベス1世の肖像画も手掛けています。

引用元:アンリ3世
上の肖像画はかつてフランソワ・クルーエに帰属する作品と考えられてきましたが、今は「Jean de Court 」(1530年-1584年)とされているようです。
シャルル9世は父親に可愛がられましたが、母カトリーヌ・ド・メディシスは「最も出来のいい息子」としてアンリ3世を可愛がりました。
このためシャルル9世の嫉妬を買い、兄弟仲は良くありませんでした。
アンリは読書や美しいファッションを好んだことから、服飾史、料理の文化史関連書籍によく名前が出てくるように思います。
ちなみに、カトリーヌ・ド・メディシスが輿入れの際にフランス宮廷に持ち込んだフォークを積極的に使用したのはこのアンリです。
1589年8月2日、アンリ3世は暗殺者の手にかかり死亡しました。
武勇で知られていながら、アンリ三世には武張ったところが皆無だった。なよなよした美男子で、いつも身なりばかり気にかけ、女装趣味さえあったとされる王子であれば、なるほど、カトリーヌ・ド・メディシスに溺愛された理由も頷けてくる。シャルル九世のような粗暴な息子でなく、リボンの可愛らしさに歓声を上げ、絹地の滑らかさにうっとりする感性の持ち主だからこそ、女親ともぴったり話が合うのである。王になるや一番に宮廷のエチケットに悩み、それをヨーロッパで最もきらびやかに昇華させたアンリ三世は、稀代の洒落男というか、ある種の芸術家肌というか。
佐藤賢一(著). 2014-9-20.『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.327.
妹・マルグリット・ド・ヴァロワ( Marguerite de Valois, 1553年5月14日-1615年5月27日)

引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ

シャルル9世の妹、マルグリット・ド・ヴァロワ。
文豪デュマの小説『王妃マルゴ』の主人公となりました。
恋多き女、「淫婦」とまで言われたマルゴ。
兄弟との近親相姦もアリの肉食系女子でしたが、彼女が結婚したかったのはギーズ公アンリでした。
1570年6月25日朝、ギーズ公アンリは、シャルル9世とカトリーヌ・ド・メディシスにマルゴ(当時17)との「現場」を押さえられるというスキャンダルを起こしてしまいます。
1572年、マルゴは後のアンリ4世と結婚。その直後サン・バルテルミの虐殺事件が起きます。

引用元:ギーズ公アンリ
マルゴの想い人だったギーズ公アンリ。
大貴族ギーズ家の出身で、カトリックの中心勢力としてプロテスタント(ユグノー)を弾圧。
1572年の「サン・バルテルミの虐殺」の実行者でもあります。
弟・アンジュー公フランソワ(エルキュール・フランソワ・ド・フランス( Hercule François de France, 1555年3月18日-1584年6月19日)

引用元:アンジュー公フランソワ

引用元:アンジュー公フランソワ
末弟アンジュー公フランソワです。
一時イングランド女王エリザベス1世(だいぶ年上)との縁談があり、対面したエリザベスから「カエルちゃん」の愛称を付けられます。
フランソワは結核で若くして亡くなり、エリザベスは彼の死を嘆いたそうです。
サン・バルテルミの虐殺「前夜」

引用元:シャルル9世(1566年)
まず、シャルル9世の肖像画に描かれた、美しいカボチャ型のズボンをご覧ください。
1563年、シャルルは、ある禁令を発布します。
ズボンには裏地のみ、詰め物をしてはならず、ポケットを付けてはならないと命じているのは、この頃のズボンがカボチャのように膨らみ、その膨らみに紛れて武器を隠すことが恐れられたからである。
徳井淑子(著). 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社. p.13.
この絵だけ見るとオモシロイな(「カボチャってwww」)と思うのですが、この時期フランス国内は常に宗教戦争の暗雲に覆われていました。
実際に、1562年にユグノー戦争が始まります。
3月1日、ヴァシーで日曜礼拝に集まっていたユグノー(プロテスタント)たちをギーズ公フランソワの兵士が襲い、70人以上を虐殺するという事件が起きたのです。(ヴァシー虐殺)
翌1563年2月18日にはギーズ公フランソワが殺害され、息子のアンリはユグノーに対し強い憎悪を抱いていました。
貴族たちの姿
ギーズ公
ギーズ公フランソワ( François de Guise )

引用元:ギーズ公フランソワ
ギーズ公アンリ1世の父親です。
スコットランド女王メアリー・スチュアートは彼の姪であることから、フランソワ2世が存命中、一族は絶頂期を迎えました。
ギーズ公フランソワは1563年に殺害されます。
シャルル・ド・ロレーヌ( Charles de Lorraine )

引用元:シャルル・ド・ロレーヌ
ギーズ公フランソワの弟で、ギーズ家出身の枢機卿。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュの結婚、マルグリット・ド・ヴァロワとナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)の政略結婚交渉に当たった人物として知られています。
アンナ・デステ( Anna d’Este )

引用元:アンナ・デステ
アンナ・デステ(フランス名アンヌ・デスト)はカトリック勢力側のギーズ公フランソワと結婚し、アンリ1世の母親となりました。

引用元:ルネ・ド・フランス
アンナの母親は、ルイ12世王女ルネ・ド・フランス( Renée de France )です。
名門エステ家のエルコレ2世と結婚したルネの宮廷は大変進歩的なものとして知られ、ジャン・カルヴァンと文通するなど、ユグノー教徒とも交流がありました。
しかし、ルネは夫や息子と対立して宗教裁判にかけられ、身柄を拘束されます。
「サン・バルテルミの虐殺」の事件が起きた時、ルネはパリにいて、幾人かのユグノーを助けています。
その虐殺の先頭にいたのは孫のアンリでした。
このルネを描いた絵はフランソワ・クルーエの父・ジャンによるものです。
モンモランシー公
アンヌ・ド・モンモランシー( Anne de Montmorency )

引用元:アンヌ・ド・モンモランシー
フランソワ1世の頃から王家に仕えた軍人。妻はフランソワ1世のいとこに当たります。
宮廷内で対立し、一時宮廷を追われたこともありましたが後に復帰、カトリーヌ・ド・メディシスに仕えます。
(関連記事:ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(後)~1529年「貴婦人の和約」締結)
ユグノー戦争のひとつ、1562年12月19日に起きた「ドルーの戦い」ではカトリック同盟軍を率い、コンデ公ルイ1世のユグノー軍と戦いました。
フランソワ・ド・モンモランシー( François de Montmorency )

引用元:フランソワ・ド・モンモランシー
モンモランシー公の息子たち、フランソワとアンリ。穏健派カトリックの兄弟です。
アンリ1世・ド・モンモランシー( Henri Ier de Montmorency )

引用元:モンモランシー公アンリ1世
兄フランソワの死でモンモランシー公を継いだアンリ1世。
この方が、コンデ公アンリ2世の妻となるシャルロット・ド・モンモランシー嬢の父親です。
(関連記事:1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機)
コンデ公
ルイ1世・ド・ブルボン=コンデ( Louis Ier de Bourbon-Condé )

引用元:コンデ公ルイ1世
初代コンデ公、ルイ1世・ド・ブルボン=コンデは、後の国王アンリ4世の叔父に当たります。
1552年のメス(Metz)包囲戦では、ギーズ公フランソワと共に、神聖ローマ皇帝カール5世の軍と戦います。
ユグノー戦争においてはユグノー派首領。
アンリ1世・ド・ブルボン=コンデ( Henri Ier de Bourbon-Condé )

引用元:コンデ公アンリ1世
コンデ公ルイ1世の息子で、父と同じくユグノーとしてユグノー戦争を戦います。
1588年、二度目の妻との間の息子・アンリが生まれる前に死亡しました。
アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ( Henri II de Bourbon-Condé )

祖父と父はユグノーですが、第3代コンデ公アンリ2世はカトリック教徒です。
国王アンリ4世の魔手から妻を守って国外逃亡した、アンリ2世。
妻はモンモランシー公の娘シャルロットです。
『マリー・ド・クレーヴの肖像』 1571年 フランソワ・クルーエ

引用元:マリー・ド・クレーヴ
こちらの美女は、マリー・ド・クレーヴ( Marie de Clèves )といいます。
マリーはカルヴァン教徒として育てられ、いとこであるコンデ公アンリ1世と結婚しました。
しかし、サン・バルテルミの虐殺事件の後、マリーとコンデ公の夫妻はカトリックへの改宗を強いられます。
コンデ公アンリ1世は逃亡し、ユグノー側に留まりますが、マリーはカトリック教徒のままでした。
姉のカトリーヌはカトリック側のギーズ公アンリ1世の妻です。
マリーは国王アンリ3世の想い人で、アンリ3世は何とか彼女を我が物にしたいと望んでいたようですが、その前に彼女は病死しています。
エリザベート・ドートリッシュと結婚後のシャルル9世
第三次宗教戦争が終わって間もない1570年、シャルルとエリザベートは結婚します。
オーストリアの神聖ローマ皇帝の皇女を妻に迎えたことで、フランスの東は安泰となりました。

引用元:シャルル9世
ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)とアンリ2世王女マルゴ、当人同士の気持ちは介入しない、ユグノーとカトリックの融和を掲げた結婚も決まります。
1572年、この結婚に先駆けてコンデ公アンリ1世とマリー・ド・クレーヴが結婚します。
8月18日。パリのノートルダム大聖堂で、アンリとマルゴは結婚式を挙げました。
披露宴最終日の8月22日、結婚を祝うために多くの人々が集っていたパリで、シャルル9世が父とも慕っていたコリニー提督(ユグノー)が撃たれる事件が起きます。
王宮ではカトリーヌ・ド・メディシスらが集まり、緊急の会議が開かれました。
そこで何が話されたのか…。
「生き延びた者が後から朕を非難することができないよう、ユグノーはひとり残らず殺してしまえ」
シャルル9世が叫んだとされる言葉です。
ユグノー寄りな王家だった筈なのに、一転してこの言葉。
8月24日朝、シャルル9世の言葉が実行に移され、カトリックによるユグノー虐殺が始まりました。
戦いは続き、フランス全土で犠牲者を出して行きます。
病魔と闘うシャルル9世にはもはや政治をみることは出来ず、最後は半狂乱の状態だったそうです。
1574年5月30日、「母上、それではお先に」との言葉を遺し、シャルル9世は亡くなりました。
虐殺の嵐が吹く1572年10月27日、エリザベート・ドートリッシュは女の子を出産しました。
夫の死後、エリザベートは娘をフランスに残して実家に戻ります。
娘マリー・エリザベート・ド・フランスは6歳で亡くなりました。
シャルル九世は常に母の影に脅え続け、その母が近世史上最大の大虐殺といわれる「聖バルテルミーの虐殺」を引き起こしたおりも、ただただ手を拱いて眺めているだけであった。そして自身は虐殺された約二万のユグノーの怨みを母の代わりに一身に受けて正体不明の死を遂げる。おかげでエリザベートはたちまち寡婦になる。
亡夫の弟の新王アンリ三世が、「それでは私と」と改めて求婚するがエリザベートはさすがにこれは峻拒する。彼女はもうこれ以上、糜爛・退廃の極致フランス宮廷にとどまる気など更々なかった。ひたすら滅亡に向かうヴァロア家のおぞましい断末魔など見たくないと、さっさと実家に戻ってしまう。
菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫. 筑摩書房. p.55.
1589年8月2日、暗殺者の手にかかりアンリ3世が亡くなり、ヴァロワ朝は断絶。
マルゴの夫アンリ4世が次の王となり、ブルボン朝が始まります。
- 佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書.
- レスター&オーク(著). 古賀敬子(訳). 『アクセサリーの歴史事典 上』. 八坂書房.
- 徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社.
- 菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫.筑摩書房.
コメント
コメント一覧 (14件)
Pちゃん (id:hukunekox)様
有り難いコメント有難うございました。
やっぱりスルドイですね。人間の、精神的な
発達の途上だったんでしょうね。
だから拠り所として宗教にすがったり、行動の規範になるものを望むのでしょうが、結果として相容れないものを殺害という手段で排除するという発想がスゴイなと思います。こういうことを過去にやってきたから、現代では少しマシなのかもしれませんね。
素敵な肖像画のウラではこんな人間関係が…と思うと、ちょっと怖いですよねえ。無邪気にカボチャパンツで笑えた頃が懐かしいです( ;∀;)。
ハンナさん☺️✨
なんだか、宗教戦争みたいなのもありーの、ドロドロした人間模様ですね、ちょっとサイコパス的な方もいて、まだ人間の精神的なものの途上だったのでは、、すいません偉そうに言ってしまった😅
あまりにも欲求ばかりがすごくて、つい、、
唯一カボチャパンツと白いタイツがほのぼのしましたw😂コメント下手でごめんなり〜(^人^)
ko-todo (id:ko-todo)様。
本日もお忙しい中ご来店有難うございます。お暑うございますね。
近親者の肖像画、こうして並べてみると、あ、似てるわと思いました。面白かったです。
愛はねえ、ここではなく、別のひとの所にありました。貴賤結婚したひとたちですね。
別記事にするのでここには書きませんでしたが(長いし)、アンリ三世も恋愛結婚したひとりだそうです。ちょっと「?」と思うけど(・∀・)。
政略結婚でも、せめて、結婚した後はある程度仲のいい夫婦、子どもができたらその子を愛する親になって欲しいと、つい思ってしまいます。そういう意味では、コンデ公アンリ2世とシャルロットの件は、馴れ初めはともかく、お互いにイヤな相手じゃなくて良かったねと(笑)。
今回も読んで下さって有難うございました
今日も夜仕事だ~行きたくね~(/ω\)
こんにちは^^
確かに…
絵を元に起こしてる感がありますね^^
3枚目と4枚目の絵は、オセロの白と黒みたいです^^
おっしゃる通り、アナとエリザベート、キリっとした感じが似てますね^^
それにしても、車輪型のラフ…
下が見えにくい感じがww
階段注意ですね。
それにしても…
結婚も出産も宗教も…
全て、権威の為って感じで…
「そこに『愛』はあるのかい?」って聞いてみたくなります。
まーたる (id:ma-taru)様
またまた遅くなってしまい、ごめんなさい。
そう、『王妃マルゴ』の時代なんですよね。
当時、「アジャーニ、美しいが、今いちボリューム不足!!」みたいな記事を見掛けました。マルゴ、細くないですもんね。肉食系だし。でも綺麗でした。私は自分の好きな俳優ふたり(アンリ4世、シャルル9世)しか目に入ってなかったようで…。まーたるさんのような観察眼があれば、また人生違ってたよね…(遠い目)。
シャルルの父アンリ2世の時代の男性ファッションはコッドピースですが、個人的にはコッドピースよりは…カボチャの方がいいかな…。
また次回もお付き合いくださいますようお願い致します。
id:happy-ok3様
知っていても知らなくても、人生にほぼ影響のないことを取り上げるブログです(笑)。
しかしこの先、美術館でこのような肖像画を観た時、「首周りに飾りがある」「カボチャブルマーに武器を隠せないようにする」と思い出していただくだけで、周囲のひと達より少し理解が深まるのではないかと思っています。
今回も読んで下さって有難うございました。
蝶々 (id:miko1221)様。
ご来店(←店?)有難うございます。
王女様たちの宝石、ドレス、見ていただけましたでしょうか。そして麗しいカボチャブルマーを。
今回は「世界史」寄りの記事でしたが、次回は「絵画」が中心です。またどうぞいらしてくださいませ。
コメントも有難うございました
schun (id:schunchi2007)様
見て下さって有難うございます。
フランソワ・クルーエの肖像画コレクション、やってみたかったんです(笑)。人物紹介をすっ飛ばして、今回は並べるだけでしたが、近くで比べて見てみると、やっぱり似ていますよねえ。
「へえ」と思ってくださったなら、今回の企画は成功です(笑)。
有難うございました。
森下礼 (id:iirei)様
フランソワ・クルーエ好きなので、一回集めてみたかったんです(笑)。父ジャンの方までは手が回りませんでしたが、この時期の有名人たちがある程度集まり、どれもクセのある顔でイイなあと思って見ていました。
森下様の最高の一枚、コンデ公を挙げてくださいましたか(笑)。あの顔はインパクトありますよね。
私は「どれも上手だなあ」と思いますが、この中で忘れられないのはフランソワ2世なんです。あのすねたような顔、そのまま描いたのかなあ、描いちゃって大丈夫だったのかなあ、と。見ている方は彼がその後長く生きられないことが分かってるから、余計あの表情が気になるのかも。
今回も見て下さって有難うございました。
おはようございます(о´∀`о)
昔観た『王妃マルゴ』の映画での、サン・バルテルミーの虐殺のシーンが蘇りました。
マルゴがすごく美しかっただけに、めちゃくちゃ印象に残るシーンです。
どの絵画もまるで魂が宿っているかのような、素晴らしい絵ですね❗️
当時のファッションや流行がとても豪奢で素晴らしいものか、今に伝えてくれた先人たちに感謝の気持ちが溢れます(*´∀`*)
指先のほのかに赤い爪の色にまで繊細忠実に描かれていて、観ているだけでほうっとしてしまいます(*☻-☻*)
カボチャパンツにそんないわれがあったとは❗️
勉強になります(*´∇`*)
ハンナさん、ありがとうございますヽ(*^ω^*)ノ
こんばんは。ハンナさま。
>「男女の首の部分に「ラフ」と呼ばれる襟が見られます。」
この名前、ラフと言うのですね。
由来は「腫れ物をどうにかして隠すために、」
そう言う理由があったのですね。
仰るように、アナはエリザベートに似ていますね。
シャルル9世の美しいカボチャ型のズボン、すごいです。
結婚も、思い人と一緒にとは、難しい事もありますね。
詳しく有難うございます。
肖像画があると、背景の出来事から、色んな事を想像できますね。
今日も有難うございます。
今日もハンナさん美術家に来れました☺️✨
色々な作品に見惚れてしまいます😌
こんばんは!!
肖像画を見ていると、結構似ている方いらっしゃいますよね。
輪郭とか、目鼻立ちとか、アレ???
みたいな(笑)。
それにしても家族構成を肖像画で見ると
余計わかりやすくなりますね。
とってもお勉強になりました!!
ずらーー、と肖像画が並んでいますが、「コンデ公アンリ1世」のそれが、「微笑むキツネ」みたいで、興味深い人物に見えます。最高の一枚。