1570年、神聖ローマ皇帝の長女アナはスペインに嫁ぎ、次女エリザベートはフランスに嫁ぎます。肖像画家フランソワ・クルーエの作品を中心にヴァロワ朝の人物を見ていきます。
フランス王シャルル9世妃エリザベート・ドートリッシュ( Élisabeth d’Autriche, 1554年6月5日-1592年1月22日)
引用元:カトリーヌ・ド・メディシスの時禱書より、シャルル9世とエリザベート夫妻
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
ルーヴル美術館:Élisabeth d’Autriche (1554-1592), reine de France, femme de Charles IX.
1500年代、女性たちの間に、宝石をセットした大きなペンダントつきの重厚なネックレスや、大きなペンダント・ブローチを付けた真珠のネックレスが流行しました。
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
袖から白いものがぽこぽこ出ていますが、これは下に着ているリネンなどの布です。
袖にわざわざ切れ込み(スラッシュ)を入れたり、二枚の生地と生地の間から、下の布を引っ張り出しているのです。
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
また、この時代の肖像画には、男女の首の部分に「ラフ」と呼ばれる襟が見られます。
始まりはスペインだったと言われ、
ある高貴なスペイン婦人の喉首に醜い腫れ物ができ、美貌が台無しになったと日夜嘆いていた。この腫れ物をどうにかして隠すために、首とあごをすっかり覆う大きなレースのラッフルが考え出されて、これがラフ誕生になったというのである。そしてたちまちスペインじゅうの人々の首にラフの花が咲いたというわけだった。
レスター&オーク(著). 古賀敬子(訳). 『アクセサリーの歴史事典 上』. 八坂書房. p.125.
ラフはイタリアにも広まり、カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王アンリ2世に輿入れする時にフランスへ持ち込んだと言われています。
このラフがやがて、大きな車輪型のラフに発展します。
エリザベートの伯父であるスペイン王フェリペ2世の娘、イサベル・クララ・エウヘニアのラフです。
大型の襞襟はスペインのラフの特徴ですが、レースが素晴らしいですね。
繊細かつ巨大な襞襟は日常的なファッションではなく、盛儀の際に整えられた姿であり、威信の表出としての意味をもつ。
徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社. p.16.
エリザベート・ドートリッシュのドイツ語名
エリザベートのドイツ語名は、エリーザベト・フォン・エスターライヒ( Elisabeth von Österreich )と言います。
「~・ドートリッシュ」「~・フォン・エスターライヒ」「~・デ・アウストリア」、どれもフランス語・ドイツ語・スペイン語で「オーストリアの」という意味です。これでエリザベートはオーストリア出身のお姫様だとわかります。
フランソワ・クルーエによるエリザベートの肖像画
フランソワ・クルーエ( François Clouet, 1510年頃-1572年12月22日)は、ヴァロワ王家、16世紀のフランス宮廷の貴族たちの肖像画を多く描きました。ミニアチュール(細密肖像画)も手掛けています。
父のジャン・クルーエも『フランス国王フランソワ1世』の肖像画で知られる画家です。
引用元:フランソワ1世
フランソワ・クルーエによるエリザベートの肖像画は前出のもの以外にもあり、ほぼ同時期に描かれているようです。
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
ELISABETH D’AUTRICHE, REINE DE FRANCE
エリザベートの家族
両親 マクシミリアンとマリア
アナとエリザベート姉妹の父親は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世です。その父親は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世。
エリザベートの母マリアは神聖ローマ皇帝カール5世の娘で、スペイン王フェリペ2世の妹です。
マクシミリアン2世とはいとこ同士です。
姉 アナ・デ・アウストリア( Ana de Austria, 1549年11月1日-1580年10月26日)
美術史美術館:Anna von Österreich, Königin von Spanien (1549-1580)
アナ・デ・アウストリアのドイツ語名はアンナ・フォン・エスターライヒ( Anna von Österreich )。
伯父に当たるスペイン王フェリペ2世の四番目の妃で、フェリペ3世の生母です。
アナの夫 スペイン王フェリペ2世( Felipe II, 1527年5月21日-1598年9月13日)
引用元:フェリペ2世
アナとエリザベートの兄弟のひとり ルドルフ2世(1552年7月18日-1612年1月20日)
引用元:ルドルフ2世
兄弟のひとり、ルドルフ2世です。
ルドルフ2世はフェリペ2世によってスペインで養育され、幼いイサベル・クララ・エウヘニアと婚約します。しかし、結婚には至らず、ルドルフは独身を通しました。
「オーストリアとフランスの二重結婚」構想
1564年頃、フランスのカトリーヌ・ド・メディシス、オーストリアの神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世たちの頭のなかには、お互いの子女を結婚させる考えがありました。
オーストリアの皇太子ルドルフ2世と王女マルグリット(マルゴ)の縁談も考えられましたが、 ルドルフは極めつけの変人でこれは白紙に。
マクシミリアン2世は次女エリザベートをフランス王シャルル9世に嫁がせ、長女アナを親戚のスペイン王家に嫁がせます。
マクシミリアン二世は娘を、フランス王家に嫁がせることに難色を示す親戚スペインをなだめるために、長女アンナをスペイン王フェリペ二世の四番目の妻に送り込んでいる。因みに彼女は最初、フェリペ二世の嫡男、あのドン・カルロスの花嫁にと目されていたが、カルロスの廃嫡と獄死により急遽、息子ではなく父に嫁いだのである。このマクシミリアン二世帝の長女と次女の結婚は一五六九年、同時におこなわれた。
菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫.筑摩書房. p.53.
国王シャルル9世の家族を、肖像画家クルーエの絵を中心に見る
ここからは、フランソワ・クルーエ本人が描いたとされているものを中心に、1500年代後半のヴァロワ朝宮廷にいた人々を見て行きます。
エリザベートの夫 フランス王シャルル9世( Charles IX de France, 1550年6月27日-1574年5月30日)
マルゴの兄、ヴァロワ朝第12代フランス王(在位:1561年-1574年)です。
引用元:シャルル9世
ベンベルグ財団美術館:Photo: Fondation Bemberg – Clouet : Portrait de Charles IX
引用元:シャルル9世
引用元:シャルル9世
美術史美術館:König Karl IX. von Frankreich (1550-1574), Brustbild
引用元:シャルル9世 CC-BY-SA-4.0
クリスティーズ:François Clouet (?Tours c. 1516-1572 Paris)
クリスティーズの解説によると、この肖像画は、シャルルが兄のフランソワ2世から王位を継いだ年である1561年にクルーエが描いた、ほぼ確実にその場で描いた肖像画に基づいている、とのことです。
母親であるカトリーヌ・ド・メディシスの言いなりだったシャルル9世でしたが、
神経質で、ときに病的なほどエキセントリックな素顔を、徐々に露にし始めた頃でもあった。短気であるとか、乱暴であるとかの域に留まらず、とにかく血を見ると興奮した。狩りで獣を仕留めると、好んで解体したとも伝えられる。妹のマルゴでないが、そろそろ年頃ということでいえば、シャルル九世は性的な衝動も激越だった。王という誰にも罰せられない地位をよいことに、貴族でも平民でも気に入った娘を手当たり次第に捕まえて、力ずくで強姦するようになったのだ。
ちょっと、尋常でない。もっとも性的な衝動のほうは、しばらくして落ち着いたようである。寵姫と呼ぶには慎ましやかながら、とにかく気に入りの愛人ができた。マリー・トゥーシェという、オルレアンでバイイ代理をしていた男の娘だが、この女との間には一五七三年四月二十八日に息子も生まれている。庶子なので 王位継承権はないが、シャルル・ドゥ・ヴァロワと呼ばれ、後にオーヴェル伯、アングーレーム公となる王子である。
ずいぶん御執心だが、それというのもマリー・トゥーシェが、マリー・ステュアール、つまりはスコットランド女王メアリー・スチュアートに似ていたからだとの説がある。シャルル九世からすれば義姉になるが、この伝説の美女を少年ながら憧れの目で眺めていたとしても、さほど不自然な話ではない。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.315.
決して悪い造りではない顔なのに、『ヴァロワ朝』を読んでから改めて見ると、ちょっとコワいものを感じてしまう…。
シャルル9世の愛妾だったマリー・トゥーシェ。シャルル憧れの兄嫁メアリー・ステュアートに似ていますかね?
引用元:マリー・トゥーシェ
メアリー・ステュアートに負けないくらいの美女ですけどね。
下は国王シャルルとの息子、シャルル・ド・ヴァロワです。
引用元:シャルル・ド・ヴァロワ
シャルル9世の父 フランス国王アンリ2世( Henri II de France, 1519年3月31日-1559年7月10日)
引用元:アンリ2世
ヴァロワ朝第10代のフランス王アンリ2世。
後に「ノストラダムスの予言が当たったのではないか」と騒がれるような事故死をします。
引用元:アンリ2世
アンリ2世の愛妾 ディアーヌ・ド・ポワチエ( Diane de Poitiers, 1499年9月3日(または1500年)-1566年4月26日)
アンリ2世の愛妾。アンリ2世より20歳ほど年上でしたが、アンリの心をしっかりと捉えていました。
ポワチエはポワティエとも表記されます。本記事ではポワチエとしています。
上の画像はジャン・クルーエによるディアーヌ。下はフランソワ・クルーエの工房のもの。美魔女。
引用元:ディアーヌ・ド・ポワチエ
引用元:ディアーヌ・ド・ポワチエ
母 カトリーヌ・ド・メディシス( Catherine de Médicis, 1519年4月13日-1589年1月5日)
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
母親カトリーヌ・ド・メディシスは名門メディチ家の出身。ローマ教皇クレメンス7世は親戚です。
王族ではないため「商人の娘」と蔑まれ苦労しますが、アンリ2世の死後フランスの摂政となり、国王の母として宮廷に君臨します。
「サン・バルテルミの虐殺」事件に関わったとされています。
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
BnF – Les Essentiels:Catherine de Medicis, reine de France, en veuve
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
BnF – Les Essentiels:Catherine de Medicis, reine de France, en veuve à soixante ans
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
ヴィクトリア&アルバート美術館:Catherine de Medici
ヴィクトリア&アルバート美術館の解説によると、「 This miniature is a rare likeness of Catherine before she became a widow, an event that meant she invariably wore much more sombre clothes of mourning. (このミニチュアは、未亡人になる前のカトリーヌの珍しい肖像であり、未亡人になる前の彼女はいつもより地味な喪服を着ていたことを意味する。(Google翻訳))」とあります。
地味?
1540年に描かれたカトリーヌ・ド・メディシスの若い頃の姿も
兄 フランソワ2世( François II de France, 1544年1月19日-1560年12月5日)
アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長男、フランソワ2世。ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年-1560年)。
引用元:フランソワ2世
フランス国立図書館:François II, dauphin de France, à seize ans
引用元:フランソワ2世
引用元:フランソワ2世
引用元:フランソワ2世
フランソワ2世妃 スコットランド女王 メアリー・スチュアート( Mary Stuart, 1542年12月8日-1587年2月8日)
フランソワ2世の妃はスコットランド女王メアリー・スチュアート。スコットランド女王メアリー1世です。
引用元:メアリー・ステュアート
イエール大学美術館:Mary, Queen of Scots
引用元:メアリー・ステュアート
フランス国立図書館:Marie Stuart en deuil blanc
ロイヤル・コレクション:Mary, Queen of Scots (1542-87) c. 1558
ロイヤル・コレクションの、この作品に関する説明文から一部引用します。
(Google翻訳)この素描は胸までの長さしかありませんが、ミニチュアには座っている人の手が含まれており、おそらくこの肖像画の役割に対する手が重要であることを示しています。右手の薬指に指輪をはめるしぐさは、1558 年にスコットランド女王メアリーと将来のフランソワ 2 世となるフランス王太子との結婚を暗示していると考えられています。これは結婚の標準的な象徴でした。 1514年8月13日、メアリー・チューダー(スコットランド女王の大叔母メアリー)とフランス王ルイ12世の代理結婚の際、王女が「右手の薬指」に金の指輪をはめたことが記録されている。
https://www.rct.uk/collection/401229/mary-queen-of-scots-1542-87
メアリーの父はスコットランド王ジェームズ5世、母はメアリー・オブ・ギーズといい、フランスの大貴族ギーズ家の出身です。
メアリーは幼い頃から美貌で知られ、フランス宮廷で養育されました。
病弱だったフランソワ2世が亡くなった後メアリーはスコットランドに帰国しますが、最後はライバルであるイングランド女王エリザベス1世によって処刑されます。
少年時代のシャルル9世の憧れの女性だったらしく、シャルルの愛人マリー・トゥーシェはメアリーに似ていたそうです。
姉 エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de Valois, 1545年4月2日-1568年10月3日)
シャルル9世の姉、アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ(またはエリザベート・ド・フランス、Élisabeth de France )は、フェリペ2世の三番目の王妃です。
スペイン語名はイサベル・デ・バロイス( Isabel de Valois )といいます。
引用元:1549年の肖像画 Rezo1515 CC-BY-SA-4.0
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ Sailko CC-BY-3.0
結婚時のエリザベートの年齢は14歳、夫となったフェリペ2世は当時33歳。
1559年、スペインとフランスの長きに渡る戦争を終わらせる和平交渉の一環でした。
フェリペとの間にイサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの娘たちをもうけましたが、若くして産褥死しています。
エリザベートのふたりの娘は、フェリペの後妻となったアナ・デ・アウストリアによって愛情込めて育てられました。
フランソワ・クルーエによる1559年の作品
姉 クロード・ド・ヴァロワ( Claude de Valois, 1547年11月12日-1575年2月21日)
引用元:クロード・ド・ヴァロワ
アルテ・ピナコテーク:Herzogin Claudia, Tochter Heinrichs II. von Frankreich
アンリ2世の次女クロード・ド・ヴァロワ(またはクロード・ド・フランス、Claude de France )は、ロレーヌ公シャルル3世の妃となりました。
母カトリーヌ・ド・メディシスのお気に入りの娘でしたが、身体が弱く、出産で亡くなっています。
引用元:ロレーヌ公シャルル3世
引用元:デンマークのクリスティーナ
夫の母「デンマークのクリスティーナ」
ナショナル・ギャラリー:Christina of Denmark, Duchess of Milan
デンマーク王女クリスティーナの母親はイサベル・デ・アウストリアといい、狂女王フアナの娘の一人で、神聖ローマ皇帝カール5世、フェルディナンド1世の姉妹です。
息子シャルルの名はクリスティーナの大伯父であるカール5世にちなんで付けられました(「シャルル」はカールのフランス語読み)。
後のロレーヌ公フランツ・シュテファン(マリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝)を通して、フランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットのご先祖様です。
弟 アンリ3世( Henri III de France, 1551年9月19日-1589年8月2日)
シャルル9世の弟、アンリ3世はヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年-1589年)。ポーランド王も兼ねています。
引用元:アンリ3世
ニコラス・ヒリアードはイングランド女王エリザベス1世の肖像画も手掛けた画家。
下の肖像画はかつてフランソワ・クルーエに帰属する作品と考えられてきましたが、今は「Jean de Court 」(1530年-1584年)とされているようです。
引用元:アンリ3世
シャルル9世は父親に可愛がられましたが、母カトリーヌ・ド・メディシスは「最も出来のいい息子」としてアンリ3世を可愛がりました。
このためシャルル9世の嫉妬を買い、兄弟仲は良くありませんでした。
アンリは読書や美しいファッションを好んだことから、服飾史、料理の文化史関連書籍によく名前が出てくるように思います。
ちなみに、カトリーヌ・ド・メディシスが輿入れの際にフランス宮廷に持ち込んだフォークを積極的に使用したのはこのアンリです。
1589年8月2日、アンリ3世は暗殺者の手にかかり死亡しました。
武勇で知られていながら、アンリ三世には武張ったところが皆無だった。なよなよした美男子で、いつも身なりばかり気にかけ、女装趣味さえあったとされる王子であれば、なるほど、カトリーヌ・ド・メディシスに溺愛された理由も頷けてくる。シャルル九世のような粗暴な息子でなく、リボンの可愛らしさに歓声を上げ、絹地の滑らかさにうっとりする感性の持ち主だからこそ、女親ともぴったり話が合うのである。王になるや一番に宮廷のエチケットに悩み、それをヨーロッパで最もきらびやかに昇華させたアンリ三世は、稀代の洒落男というか、ある種の芸術家肌というか。
佐藤賢一(著). 2014-9-20.『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.327.
妹 マルグリット・ド・ヴァロワ( Marguerite de Valois, 1553年5月14日-1615年5月27日)
シャルル9世の妹、マルグリット・ド・ヴァロワ。
文豪デュマの小説『王妃マルゴ』の主人公となりました。
引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ
引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ
子供時代のマルグリット・ド・ヴァロワ。
下は後のアンリ4世と結婚の頃(1572年8月)のマルグリット。仇っぽい。妖艶。
引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ
フランス国立図書館:Marguerite de Valois, seconde reine de Navarre
引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ
フランス国立図書館:Marguerite de Valois, dite la reine Margot
この1571年頃のマルグリットは、コンデ美術館の作品のもととなったスケッチと言われています。
Wikipedia には「かつてはフランソワ・クルーエの作品とされていた」とありましたが、本作を収蔵しているフランス国立図書館のサイトでは作者は「フランソワ・クルーエ」となっています(2023年11月現在)。
どうなんですかね。とりあえず、博物館・美術館の記載を参考にさせていただいています。
引用元:マルグリット・ド・ヴァロワ
恋多き女、「淫婦」とまで言われたマルゴ。
兄弟との近親相姦もアリの肉食系女子でしたが、彼女が結婚したかったのはギーズ公アンリでした。
1570年6月25日朝、ギーズ公アンリは、シャルル9世とカトリーヌ・ド・メディシスにマルゴ(当時17)との「現場」を押さえられるというスキャンダルを起こしてしまいます。
1572年、マルゴは後のアンリ4世と政略結婚。その直後サン・バルテルミの虐殺事件が起きます。
ギーズ公アンリ1世( Henri Ier de Guise, 1550年12月31日 – 1588年12月23日)
引用元:ギーズ公アンリ
マルゴの想い人だったギーズ公アンリ。
大貴族ギーズ家の出身で、カトリックの中心勢力としてプロテスタント(ユグノー)を弾圧。1572年の「サン・バルテルミの虐殺」の実行者でもあります。
弟 アンジュー公フランソワ(エルキュール・フランソワ・ド・フランス( Hercule François de France, 1555年3月18日-1584年6月19日)
一番下の弟アンジュー公フランソワ。
完成度の高い肖像画ですね。ロイヤル・コレクションの解説によれば、右上の隅に「1561年」の日付があり、モデルのフランソワは当時5、6歳とのことです。
引用元:アンジュー公フランソワ
ロイヤル・コレクション:Hercule-François, Duke of Alençon and of Anjou (1555-84) 1561
引用元:アンジュー公フランソワ
引用元:アンジュー公フランソワ
引用元:アンジュー公フランソワ
ロイヤル・コレクション:Hercule-François, Duke of Alençon and of Anjou (1555-84) c.1580
一時イングランド女王エリザベス1世との縁談がありました。(フランソワは当時24歳くらい、エリザベスは46歳くらい)
フランソワと対面したエリザベスは、フランソワに「カエルちゃん」の愛称を付けます。
一時は野心も持ったフランソワでしたが、結核で若くして亡くなり、訃報を聞いたエリザベスは彼の死を嘆いたそうです。
サン・バルテルミの虐殺「前夜」
引用元:シャルル9世
美術史美術館:König Karl IX. von Frankreich (1550-1574), ganze Figur
まず、シャルル9世の肖像画に描かれた、美しいカボチャ型のズボンをご覧ください。
1563年、シャルルは、ある禁令を発布します。
ズボンには裏地のみ、詰め物をしてはならず、ポケットを付けてはならないと命じているのは、この頃のズボンがカボチャのように膨らみ、その膨らみに紛れて武器を隠すことが恐れられたからである。
徳井淑子(著). 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社. p.13.
この絵だけ見るとオモシロイな(「カボチャってwww」)と思うのですが、この時期フランス国内は常に宗教戦争の暗雲に覆われていました。
実際に、1562年にユグノー戦争が始まります。
3月1日、ヴァシーで日曜礼拝に集まっていたユグノー(プロテスタント)たちをギーズ公フランソワの兵士が襲い、70人以上を虐殺するという事件が起きたのです。(ヴァシー虐殺)
翌1563年2月にはギーズ公フランソワが殺害され、息子のアンリはユグノーに対し強い憎悪を抱いていました。
貴族たちの姿
ギーズ公
ギーズ公フランソワ( François de Guise, , 1519年2月17日-1563年2月24日)
ギーズ公アンリ1世の父親です。
引用元:ギーズ公フランソワ
ルーヴル美術館:François de Lorraine, duc de Guise (1519-1563).
スコットランド女王メアリー・スチュアートが姪であることから、フランソワ2世が存命中に、一族は絶頂期を迎えました。
ギーズ公フランソワは1563年に殺害されます。
シャルル・ド・ロレーヌ( Charles de Lorraine, 1524年2月17日-1574年12月26日)
ギーズ家出身の枢機卿。ギーズ公フランソワの弟。
引用元:シャルル・ド・ロレーヌ
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュの結婚、マルグリット・ド・ヴァロワとナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)の政略結婚交渉に当たりました。
アンナ・デステ( Anna d’Este, 1531年11月16日-1607年5月17日)
アンナ・デステ(フランス名アンヌ・デスト)はカトリック勢力側のギーズ公フランソワと結婚。ギーズ公アンリ1世の母親。
引用元:アンナ・デステ
アンナの母親は、ルイ12世王女ルネ・ド・フランス( Renée de France )です。
引用元:ルネ・ド・フランス
名門エステ家のエルコレ2世と結婚したルネの宮廷は大変進歩的なものとして知られ、ジャン・カルヴァンと文通するなど、ユグノー教徒とも交流がありました。
しかし、ルネは夫や息子と対立して宗教裁判にかけられ、身柄を拘束されます。
「サン・バルテルミの虐殺」の先頭でユグノーを殺害したのはルネの孫、アンリでした。
このルネを描いた絵はフランソワ・クルーエの父ジャン・クルーエによるものです。
モンモランシー公
アンヌ・ド・モンモランシー( Anne de Montmorency, 1493年-1567年11月12日)
フランソワ1世の頃から王家に仕えた軍人。妻はフランソワ1世のいとこに当たります。
引用元:アンヌ・ド・モンモランシー
宮廷内で対立し、一時宮廷を追われたこともありましたが後に復帰、カトリーヌ・ド・メディシスに仕えます。
ユグノー戦争のひとつ、1562年12月19日に起きた「ドルーの戦い」ではカトリック同盟軍を率い、コンデ公ルイ1世のユグノー軍と戦いました。
フランソワ・ド・モンモランシー( François de Montmorency, 1537年7月17日-1579年5月6日)
引用元:フランソワ・ド・モンモランシー
モンモランシー公の息子たち、フランソワとアンリ。穏健派カトリックの兄弟です。
アンリ1世・ド・モンモランシー( Henri Ier de Montmorency, 1534年6月15日-1614年4月2日)
引用元:モンモランシー公アンリ1世
兄フランソワの死でモンモランシー公を継いだアンリ1世。
最初の結婚でもうけた娘シャルロットがシャルル・ド・ヴァロワに、次の結婚でできた娘シャルロットがコンデ公アンリ2世に嫁いでいます。
コンデ公
ルイ1世・ド・ブルボン=コンデ( Louis Ier de Bourbon-Condé, 1530年5月7日-1569年3月13日)
初代コンデ公、ルイ1世・ド・ブルボン=コンデ。後の国王アンリ4世の叔父に当たります。
引用元:コンデ公ルイ1世
1552年のメス(Metz)包囲戦では、ギーズ公フランソワと共に、神聖ローマ皇帝カール5世の軍と戦います。
ユグノー戦争においてはユグノー派首領。
アンリ1世・ド・ブルボン=コンデ( Henri Ier de Bourbon-Condé, 1552年12月29日-1588年3月5日)
引用元:コンデ公アンリ1世
コンデ公ルイ1世の息子で、父と同じくユグノーとしてユグノー戦争を戦います。
1588年、二度目の妻との間の息子・アンリが生まれる前に死亡しました。
アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ( Henri II de Bourbon-Condé, 1588年9月1日-1646年12月26日)
引用元:アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ
祖父と父はユグノーですが、第3代コンデ公アンリ2世はカトリック教徒です。
国王アンリ4世の魔手から妻を連れて国外逃亡した、アンリ2世。
妻はモンモランシー公の娘シャルロットです。
マリー・ド・クレーヴ( Marie de Clèves, 1553年-1574年11月14日)
引用元:マリー・ド・クレーヴ
こちらの美女は、マリー・ド・クレーヴといいます。
マリーはカルヴァン教徒として育てられ、いとこであるコンデ公アンリ1世と結婚しました。
しかし、サン・バルテルミの虐殺事件の後、マリーとコンデ公の夫妻はカトリックへの改宗を強いられます。
コンデ公アンリ1世は逃亡し、ユグノー側に留まりますが、マリーはカトリック教徒のままでした。
姉のカトリーヌはカトリック側のギーズ公アンリ1世の妻です。
マリーは国王アンリ3世の想い人で、アンリ3世は何とか彼女を自分のものにしたいと望んでいたようですが、その前にマリーは病死しています。
エリザベート・ドートリッシュと結婚後のシャルル9世
第三次宗教戦争が終わって間もない1570年、シャルルとエリザベートは結婚します。
オーストリアの神聖ローマ皇帝の皇女を妻に迎えたことで、フランスの東は安泰となりました。
引用元:シャルル9世
フランス国立図書館:Portraits dessinés de la cour de France
ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)とアンリ2世王女マルゴ、当人同士の気持ちは介入しない、ユグノーとカトリックの融和を掲げた結婚も決まります。
1572年、この結婚に先駆けてコンデ公アンリ1世とマリー・ド・クレーヴが結婚します。
8月18日。パリのノートルダム大聖堂で、アンリとマルゴは結婚式を挙げました。
披露宴最終日の8月22日、結婚を祝うために多くの人々が集まっていたパリで、シャルル9世が父とも慕っていたコリニー提督(ユグノー)が撃たれる事件が起きます。
引用元:ガスパール2世・ド・コリニー
セントルイス美術館:Admiral Gaspard II de Coligny
王宮ではカトリーヌ・ド・メディシスらが集まり、緊急の会議が開かれました。
そこで何が話されたのか…。
「生き延びた者が後から朕を非難することができないよう、ユグノーはひとり残らず殺してしまえ」
シャルル9世が叫んだとされる言葉です。
ユグノー寄りな王家だった筈なのに、一転してこの言葉。
8月24日朝、シャルル9世の言葉が実行に移され、カトリックによるユグノー虐殺が始まりました。
戦いは続き、フランス全土で犠牲者を出して行きます。
病魔と闘うシャルル9世にはもはや政治をみることは出来ず、最後は半狂乱の状態だったそうです。
1574年5月30日、「母上、それではお先に」との言葉を遺し、シャルル9世は亡くなります。
虐殺の嵐が吹く1572年10月27日、エリザベート・ドートリッシュは女の子を出産していました。
名付け親はイングラド女王エリザベス1世、そして神聖ローマ皇帝妃マリア・フォン・シュパーニエン(エリザベート・ドートリッシュの母)。
夫の死後、エリザベートは娘をフランスに残して実家に戻ります。
次の王、義弟のアンリ3世から求婚されましたが、これは断りました。
シャルル九世は常に母の影に脅え続け、その母が近世史上最大の大虐殺といわれる「聖バルテルミーの虐殺」を引き起こしたおりも、ただただ手を拱いて眺めているだけであった。そして自身は虐殺された約二万のユグノーの怨みを母の代わりに一身に受けて正体不明の死を遂げる。おかげでエリザベートはたちまち寡婦になる。
亡夫の弟の新王アンリ三世が、「それでは私と」と改めて求婚するがエリザベートはさすがにこれは峻拒する。彼女はもうこれ以上、糜爛・退廃の極致フランス宮廷にとどまる気など更々なかった。ひたすら滅亡に向かうヴァロア家のおぞましい断末魔など見たくないと、さっさと実家に戻ってしまう。
菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫. 筑摩書房. p.55.
虚弱だった娘マリー・エリザベート・ド・フランスは6歳で亡くなりました。
1589年8月2日、暗殺者の手にかかりアンリ3世が亡くなり、ヴァロワ朝は断絶。
マルゴの夫だったアンリ4世が次の王となり、ブルボン朝が始まります。
引用元:アンリ4世
- 佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書.
- レスター&オーク(著). 古賀敬子(訳). 『アクセサリーの歴史事典 上』. 八坂書房.
- 徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社.
- 菊池良生(著). 『ハプスブルク家の光芒』.ちくま文庫.筑摩書房.
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